デフの友だち
9月初めの近畿陸上記録会は、三木市の防災公園で行われる。
巨大なスタジアムは、災害時に物資の置き場になるそうだ。
新しくて設備は整っているが、とても辺鄙な場所にある。
先輩の車に乗せてもらい、なんとか行くことができた。
今日は二度目の一万mに挑戦する。
好記録を出せば、ロンドンへの道も開けてくる。
目標はベスト記録の更新だ。
レースを重ねるごとに、目指す記録との隔たりが明白になってくるのが厳しい。
一万mは午後4時召集で、走るのはたった14人。
みんな小柄で締まった体をしており、日に焼けた顔が炎天下での走り込みを物語っている。
4時10分。スタート。
7周目まで真ん中辺りにつけていた。
キロ3分のペースは大体身についてきたので、今日はかなり遅いような気がする。
12周で3位。
ピッチを上げれば先頭になれるだろうが、その後の走りには自信が持てない。
トップにくらいつき、最後辺りで勝負しろというのが東田のアドバイスだ。
先頭は山洋工業。2位はシミズ製薬。
前に五千でトップ争いした人がいた。
メインスタンド前で東田の声が聞こえた。
「いるぞ、彼女」
『疾風怒涛』と書かれた横断幕の端の辺りに由佳が見えた。
来てくれたのか。
でもどうやって来たんだ?
遠いから応援は無理と言っていたのに。
もうみんなに彼女のことを知られてしまったな。
20周目で24分台。
残り二千だ。
ここでスパートをかけた。
彼女のいる直線部分でスピードを上げる。
二人抜いて第1コーナーのカーブ辺りで先頭になった。
そのまま1位を譲らずフィニッシュ。
記録は30分3秒。
もう少しで30分を切れていた。
由佳のトレーニングで十分鍛えられている。
もっと自信を持ち、最初から飛ばしていたらよかった。
スタンドに帰ると、後片付けはあらかた終わっていた。
「倉本は、あの子と帰るだろ?」
車に乗せてくれた先輩が、笑いながら行ってしまった。
彼女は膝までのタイツと黄色いカットソー。
いつもと感じが違う。
朝のトレーニング姿もいいが、今日は見るのがまぶしいような気がする。
観覧席に寝かされ、アイシングとマッサージ。
早々に切り上げ、駐車場に向かう。
「1位、おめでとう。タイムよかったね」
「もっと早く君を見つけていたら、記録を伸ばせていた」
「ここに着いて、友達とランニングをしていた。気持ちがよかった」
「友達?」
由佳の友達が車で待っていてくれた。
彼女の12年来の親友、梶井基子さん。
目がくりくりして、笑うとえくぼの出る美人さんだ。
その恋人古河さんは、21歳で穏やかそうな人だ。
二人から手話と口話で話しかけられた。
「すごいな。優勝なんて」
「由佳ちゃんから聞いていた通りかっこいいね。背が高いしハンサムだし」
手話は早いが、口話はとても聞き取りやすい。
由佳の口話は一本調子で、聞き取れはするが違和感がある。
彼女自身苦手意識があるのか、淳一以外の人前でめったに口話は使わない。
一度尋ねたことがある。
「君は、なぜ口話をしない?」
「父が家族に手話をさせたから口話が下手になった。声に出してほしい?」
「別に構わない。もっと手話の練習を頑張るよ」
古河さんが乗ってきたのは軽自動車で、淳一には窮屈だった。
見慣れない大きなバックミラーが付けられている。
それを見ると、後部座席で梶井さんと由佳がすごいスピードで手話をしていた。
基子さんが話してくれた。
「デフの陸上大会は、私たち三人共出たことがあります。でも今日の大会はすごく迫力がありました。淳一さんはすごい。彼女が好きになったのも当たり前」
後ろを向き、ゆっくり手話を見せた。
「応援、ありがとう。車に乗せてくれてありがとう。友達になれてうれしい」
道路沿いのレストランに入った。
この店は焼きたてのパンが食べ放題で有名らしい。
案内された席に座り、また手話と口話の会話が始まる。
口話が入ると手の動きは小さくてもいいので、会話が自然な気がする。
古河さんは聾学校の高等部を出て、大手の菓子メーカーに勤めて3年目。
借金をして車を手に入れたそうだ。
梶井さんが由佳のことを教えてくれた。
「彼女はスポーツ万能で頭もいい。でも人の注意をあまり聞かない」
思わず笑ってしまった。
由佳が顔をしかめ、違うという風に首を何度も振った。
店員との対応や注文は淳一がやった。
手話の会話をしていると、周りのテーブルからの視線を感じる。
手話が珍しいのだろう。小さな男の子が近くに来て、不思議そうに見つめていた。
それを母親が見とがめて、「だめでしょ。見たら失礼よ」と叱った。
失礼なんだろうか?
なんだか落ち着かなくなった。
日本ではろう者を知らない人が多すぎる。
俺だって由佳と付き合う前は、何にも知らなかったけれど。
支払いは古河さんがしてくれて、淳一の出したお金を受け取ってくれなかった。
「次は、もっといい記録を出して、みなさんを招待します」
三人が手をひらひらしてくれた。
手話の拍手だ。言葉よりわかりやすい。
帰りは、由佳の隣に座った。
淳一の肩に頭を寄せてきたので、少しびくびくしながら肩を抱いた。
手も握った。
今日はOKなんだな。
家に着くまでの、ほんのしばらくの幸せだ。
「明日も・頑張って・走ってね」
耳元でつぶやく声が聞こえた。
明朝はまた20キロの日か。




