君とオリンピックに行きたい
病院に着くと、三田島医師が信じられないという顔で迎えてくれた。
「君が喧嘩をする人間だとは思わなかったな。それに何で由佳と一緒なんだ?」
彼女が手話で経緯を知らせると、顔つきが険しくなった。
「あいつか。由佳を待ち伏せしていたな。今度こそきちんとしなきゃいかんな」
淳一を診察室の椅子に座らせた。
「さて、君はだいぶやられたなあ。出血は止まっているから縫わなくてもよさそうだが」
手際よく血をふき取り消毒をしてくれたが、かなり痛む。
「君に由佳を助けてもらうのは二回目だな」
二回目?
口が痛くて話せないので首をかしげた。
「ほら前、山でイノシシから」
治療後、待合室の椅子に座り、つけっぱなしのテレビを見ていた。
手と顔は擦りむいたくらいだが、口の中を切ったのか、まだ血の味がする。
彼女がタオルに包んだ保冷剤を渡してくれた。
それを頬に当てながら、何を言おうかと考えた。
彼女は落ち着かない様子で前の椅子に座り、淳一を見つめている。
保冷剤を置き、ゆっくり手話をしながら話した。
「君に・会いたかった」
うなずいてくれた。じっと唇を見ている。
口を開けたら痛むがどうでもいい。
何度も練習した手話を声を出しながらやった。
「君に・会えなくて・つらかった」
またうなずいてくれた。
「これから・僕は・帰る家が・無くなる・君まで・失いたく・ない」
首をかしげている。
当たり前だ。こんな泣き言がわかるはずない。
つけっぱなしのテレビには、来年行われるロンドンオリンピック会場が映し出されていた。
痛む唇をかんで彼女を見た。
もうやけくそだ。
テレビを指さし、覚えている手話を入れながらはっきりと言った。
「僕は・オリンピックに・出たい・君と・一緒に・行きたい」
彼女は、目を大きく見開いたまま淳一を見つめた。
もう一度やってみた。
「僕は・君と・オリンピックに・行きたい」
彼女は立ち上がり、部屋の向こうを指さした。
次に呆然としている淳一の手を引っ張った。
手をつながれたまま、明るくて広いリビングを抜ける。
大きな家だ。
周りを見る間もなく階段を上り、彼女の部屋へ連れて行かれた。
診察室にいた浩輔と美智子は、顔を見合わせた。
待合室で彼が話した内容は、全部聞こえていた。
「話が突飛すぎてついていけないわ」
「オリンピックとはなあ。由佳に何ができるんだ?」
「何か芝居がかってる。やっぱり倉本君、変よ」
浩輔は、帰る所がなくなるという彼の言葉が気になった。
ともかく一杯飲もう。
由佳の部屋に入ると、机の前の椅子に座らされた。
先程入れたクーラーの音がする。
唇の切れた所が痛くて舌でなめた。
彼女が口を開いた。
「今日、あ・り・が・と・う。」
少し高いトーンでかすれたような声。
やっぱり話せるのか。
これが口話なんだな。
手真似で書くものを頼んだ。
前のデートで使った小さなノートと鉛筆を渡された。
新しいページに考えながら書いた。
1、君と別れたくない。
2、君の言うことは何でも聞く。
3、君の許しなく、君にはふれない。
それを読むと彼女は笑みを浮かべた。
続けて書いた。
4、オリンピックに出たい。助けてほしい。
1から3までは、会えたら伝えたいと思っていたことだ。
4番目はついさっき思いついたことだ。
彼女はしばらく考えていたが、下に書いた。
「本気?」
うなずいた。
「私にできる?」
またうなずいた。何でもやってやるよ。
「あなたが本気なら、私、勉強する。少し待ってくれる?」
「どのくらい?」
「一か月くらいかな?」
彼女は、はさみで淳一が書いた部分をていねいに切り取った。
手話で聞いた。
「切ったのは、なぜ?」
「私の・タ・カ・ラ・モ・ノ」
彼女の声を聞いて、思わず抱きしめたくなった。
でも早速ルール違反になってしまう。
ようやく部屋に目を向ける余裕ができた。
ピンク色のカーテンや枕が目に入ってきた。
女の子の部屋に入るのは、生まれて初めてだ。




