イノシシのおかげ
山道を二人でゆっくり歩く。
渓流を渡る時、手を差し出したが、首を横に振り一人で渡った。
手をつなぎたいが、まだ無理なのか。
風吹き岩という小高い岩山に着いた。
周りはカップルや親子連れでにぎやかだ。
彼女が敷いてくれたシートに座った。
お弁当は駅前のコンビニで買ったおにぎり。
デザートのフルーツやお茶は持ってきてくれた。
練習してきた手話を見せた。
「これから手話をもっと覚える。君のことをもっと知りたい」
返事はなかった。
好意は伝わっていると思うが、会話がないのは気詰まりだ。
でもどのように会話を進めたらいいのか分からない。
目の前の景色は最高なのに。
突然、彼女のかすれた声が聞こえたかと思うと、後ろから淳一の肩を強く持った。
えっ、何で?
すぐ目に入ったのは猪だ。
でかいのが、ゲホゲホ唸りながら彼女のリュックに頭を突っ込もうとしていた。
あわててリュックを拾い上げた。
蹴飛ばしてやろうか。
猪は牙のある頭を上げた。
こいつ噛むのかな?
後ずさりする淳一の肩を彼女はまだ離さない。
俺が君をいつでも守ってやるよ。
近くにいたハイカーが石や棒切れを投げて猪を追い払ってくれた。
おにぎりを落としてしまったので、残り一個を半分に分けて食べた。
いい雰囲気に戻ってきた。
猪のおかげだ。
「帰ろうか?」
何となく彼女に向かって話すとうなずいた。
聞こえないのになぜわかる?
下りは楽だから足取りも軽い。
彼女は淳一の後ろをつかず離れずで歩く。
手をつなごうとしたが、また断られてしまった。
駅に着いたのはまだ2時だ。
ノートを借りて書いた。
「これからどこに行こうか?」
首をかしげているが返事はない。
思い切って前から考えていたことを書いた。
「僕の家に来る?」
それを見たとたん、睨むようにして首を何度も横に振った。
やはりまだ早かったか。
帰りの電車内で、練習してきた手話をした。
「好きな人はいる?」
彼女は、嫌な顔をして書いた。
「教えたくない。それに人が多い所で手話をしたくない」
「悪かった。ごめん」
会話というか筆談が途切れた。
何故か機嫌を損ねたようだ。
朝、待ち合わせた駅に着いた。
彼女は表情を変えずに「ありがとう」の手話をして、すぐに帰ろうとした。
ちょっと待てよ、家まで送るつもりだったのに。
後ろから彼女の肩に手を置いた。
すると思いもよらないきつい目で淳一を睨み、駆けるように離れていった。
この前のように、無理に引っ張っていける感じではない。
下心を見抜かれたのだろうか。
時間をかけて部屋をきれいにしてきたのに。
彼女が自分の家まで来てくれたら、と妄想を抱いていたのは事実だ。
釈然としないまま肩を落として家に帰り、メールを送った。
「今日は本当に楽しかった。でも君の気持を損ねたみたいで心苦しい。また会うチャンスが欲しい」
返事はなかった。
次の日も似たような内容を送ったが、やはり返事は帰って来ない。
三回送ってやめた。
これ以上やったらストーカーだ。
大学では、何人も女子大生と知り合ったし、陸上部に行けば、親しく話せる部員がいる。
真剣に講義を受け、夕暮れの中を汗だくになりながらダッシュを繰り返す。
充実しているはずなのに、胸の一部分にぽっかり大きな穴が開いたままだ。




