声が出せない?
スタンドでは、部員が大騒ぎをしていた。
「五千で六甲大歴代1位。初の14分切りだ!」
みんなと握手をしながらも、心の中では焦っていた。
ぐずぐずしていたら彼女が帰ってしまう。
汗も拭かずにもう一度グラウンドに降りた。
ゲート前まで急いだ。
気は急くが足がもつれて走れない。
彼女は、いてくれた。
席から立ち上がり、胸の下から上へ手を握っては開く動作を繰り返している。
何の動作か分からない。
喜んでくれているのか?
「ごめん。あと少し待ってくれるかな。表彰式があるから」
大声で叫んだが、彼女は帰りかけようとした。
遠くて聞こえないのか。
腕時計を何度も指さし、表彰状を受け取るしぐさをした。
彼女はうなずいて座席に座った。
よかった。分かってくれた。
スタンド正面に駆け戻ると、表彰式の直前だった。
東田が急げと手を回している。
放送を聞くと県の学生新記録だったらしい。
もらったメダルと表彰状をリュックに詰め込んだ。
後片付けは終わっているので、すぐに帰れると思っていたら最後の反省会。
監督と主将の話を聞く。
早く終わってくれ。
東田が「祝勝会に行こう」と言うのを振り切って、ゲート上の観客席に駆け付けた。
出口辺りに彼女が立っていた。首の辺りで切りそろえた髪が風でなびいている。
灰色の長い目のスカートと白のブラウス。
どこの高校だろう。
見たことのない制服だ。
「ごめん、遅くなった。部の会が延びたんだ」
その言葉をさえぎるように、指で背もたれのない青い観客席を指さした。
今ここに座るのか?
ぼんやりしている淳一を座らせ、ビニル袋に包んだものをタオルで巻いた。
しゃがんだ彼女は、淳一のジャージの裾をまくりあげた。
「えっ?何するの」
何も答えず、膝まで出した淳一の足にその白いものを押し当てた。
凍えるように冷たい。
二個を両手で持って、動かしながら当てる。
アイシングか。
そういえば、走った後の整理運動をやっていない。
彼女を見下ろしながら、前に病院で見た茶髪ではないことに気が付いた。
戻したんだ。
髪の長さもセミロングから、首が見えるくらい短くしていた。
靴下も脱がされ、素足も時間をかけて冷やしてくれた。
「もういいから」と言っても構わず押さえ続けた。
申し訳なさと冷たさで我慢できなくなった。
「もういいよ。帰ろう。なんかおごるよ。優勝できたのは君のおかげだ。本当にありがとう」
西日が、少し汗ばんだ彼女の横顔を照らしている。
鼻筋の通ったきれいな子だな。
競技場の外には誰もいなかった。
「君が見えたのは3周目だった。君かどうか確かめたくて必死に走った。やっとわかってから、君を目がけて走ることにしたんだ。手を振ってくれたのも分かったよ」
駅の方へ歩きながら、レース中のことを一人で話していた。
返事をしないのは恥ずかしいからかな。それとも風邪か何かで声が出せないのだろうか?
電車の中でも話しかけたが、微笑むだけで何も答えてくれない。
仕方なく電車の窓に映る彼女を見つめていた。
身長は淳一の肩くらいで、女性としたら高い方だ。
俺と目を合わせることなく、外を見ている。
次の駅で彼女が降りた。
もちろん迷わず一緒に降りた。
改札を出たところでもう一度聞いた。
「のどが痛いの?風邪をひいていて声が出せないのかな?」
彼女は少し淳一の顔を見てから、右手で耳と口を順に押さえた。
首をかしげていると、もう一度耳と口を指さし、両手でバツの形をした。
最後にさようならというように手を振り、呆然としている淳一を置いて歩き出した。




