帰国の途へ
選手村で目覚めると、加納さんから電話がかかってきた。
「昨日はご苦労さん。でも今日も大変なことになっているんだ。イギリス人だけでなく、日本人の会からも招待がたくさん来ている。昨日の君たちのスピーチが動画配信されて、各方面で話題になっているよ」
いまいち、言っていることが分からない。
「あの、それより僕たちのプライベートな時間はどうなるんですか?」
今夜のフライトまで、午前中にロンドンブリッジやロンドンアイに行く予定だった。
大英博物館はもうあきらめていた。
「悪いが日本大使館で君たちの歓迎レセプションを行うと連絡があった。それは出席してくれないかな。出発はもう一日延ばし、君たちは同じ便で帰国できるように手配してもらうから」
駐英大使館はバッキンガムの近くで、歴史を感じさせる重厚な建物だった。
レセプションは立食パーティーだと聞いていたが、出席者の大半は正装だった。
今日もユニフォーム姿でマイクを持った。
スピーチは、また応援してくれた人への感謝の言葉ばかりだ。
由佳のことにはふれなかった。
大使館の人が言うには、マラソン入賞以来、二人がマスコミで連日取り上げられているそうだ。
由佳の人気は高く、王室の方に膝を曲げて挨拶をした所や、手話で『アイ ラブ ロンドン』をする画面の動画アクセスが激増しているとか。
「二人のおかげで、ここ数日だけで、日本に対する好感度が急上昇している」
そんなあいさつをされたが、大して嬉しくもない。
レセプション終了後も、日英米のテレビや新聞の取材を受けた。
滞在最終日は、疲れ果て、空港に行くまでどこにも行かずじまい。
8月14日。ヒースロー空港から、夕方の便で帰国の途についた。
大使館が手配してくれて、三人とも同じ便の近い席に座ることができた。
座席は行きと同じプレミアムエコノミー。
日本人のキャビンアテンダントさんは、今回も何かと親切だった。
「もし機内でストレッチをしたいときは、声をかけてくださいね」
なぜか行きの便のことを知っている。
もうする気はないよ。
由佳と淳一は隣席にしてもらった。
彼女は淳一を窓側に座らせ、さっさと持参したノートパソコンを開いた。
のぞくとJUN1から2,3、と順にアプリが並んでいる。
「これは何?」
「あなたのデータ。今からオリンピックの分も入れるから邪魔をしないで」
彼女が席を外した間に、JUN1をクリックしてみた。
何百枚も俺が走っている写真ばかり。
アップや遠景など一画面に何十枚も貼り付けられている。
JUN2は淳一の基本データ。
以前吉泉教授から渡されたデータが、何ページも表になっていた。
彼女が負傷した後の二週間分は空白になっていた。
彼女が帰って来ると叱られた。
「さわらないで。あなたはコンピュータを使えないでしょう」
「それは言い過ぎだよ。でもこんな資料を作れるなんてすごいな。看護師もいいけれど、コンピュータの勉強をする方がいいのじゃないか?」
「私もそう思う」
「でも帰ったら、また看護学校で勉強だよ」
返事をせず考え込んでいた。
窓の外は真っ暗で、時折り眼下に街の光が見える。
どこの国だろう?
だいぶたって、彼女が手を動かした。
「帰ってから、これからどうするか決める。私、親不孝ばかりしているから」
「親不孝?」
「わがままを言って、たくさんのお金を払ってもらった」
「僕のせいなら、銀メダルの賞金を全部わたすよ」
「そんなことより私はこの国が好き。もっとロンドンにいたかった」
「僕は、君と早く日本に帰りたい。帰ったら約束を守ってもらう」
「約束?」
彼女の体を指さすと、淳一を睨んだ。
「ジュンの馬鹿。いやらしいことを考えている」
どこでもいい。
早く君と二人きりになりたいよ。
食事が運ばれてきたが、あまり食欲はない。
「少しだけ食べて寝ましょう。今日本は明け方。日本に着いたらお昼過ぎになる。時差ボケを少なくしないと」
毛布をもらい目を閉じた。
帰国したらどんな生活になるのだろう?
トレーニングはもういい。
今度は俺が由佳をサポートしたらいいのか。
何ができるのだろう。
一緒に行きたいところも山ほどある。
キス以上のこともしたい。
毛布のなかで由佳の手を探し、握りしめた。




