王女様
ホテルに帰ると、すぐ鮫川さんが迎えに来た。
予想通り、40才位のきりっとしたキャリアウーマンだ。
「申し訳ないけれど予定が変わったの。いつものホテルで行なうはずが、参加者がすごく増えてね。おまけに私の会社もあなた方を取材したいって。それで急遽BBCのホールを使わせてもらうことになって、一時間遅れで始めることにしたの。悪いけど倉本選手は、ユニフォームを着て出席してくれませんか?由佳さんは今のままで十分すてきです」
大慌てで選手村に帰り、ユニフォームを着てBBC本社ビルに向かった。
マラソンを走り終えた次の日なのに、何でこんなことになってしまったんだ。
由佳たちと合流してホールの玄関に行った。
すでにチェックを受けるため並んでいる人がたくさんいる。
ただの交流会にしては、えらく警備が厳重だ。
淳一たちは、写真入りの選手証を見せるとすぐに中に入れてもらえた。
会場は大学の大教室みたいだった。
前のステージにはBDAの旗が立てられている。
すでに百人以上の人が座っていた。
何が少人数だ。
由佳と淳一が壇上の席に着き、会が始まった。
会場の真ん中にテレビカメラが用意され、ライトがまぶしい。
加納さんと母親は一番後ろの席に見えた。
当然ながら進行は全部英語で、横に手話通訳者がいて司会者の話を伝えている。
英語はゆっくりだから何とか理解できた。
司会者が鮫川さんと替わり、部屋が暗くなった。
スクリーンに、昨日のマラソンの様子が映し出される。
ご丁寧に妨害行為をされている場面から始まった。
フィニッシュしてから1位と2位選手のウィニングラン。
次に英国選手のフィニッシュ場面。
そこから淳一が、とぼとぼ日の丸を持って由佳を探している様子が映し出された。
一つのカメラが、俺の行動を全部撮っていたようだ。
自分が泣いている姿など見たくもない。
二人が手話で話している場面には、英語のテロップが入れられていた。
最後に彼女のアイ・ラブ・ロンドンの手話。
そこで拍手が聞こえた。
場内が明るくなった。
後ろのドアから、背の高い男性に囲まれた女性が入って来た。
客席の人たちが立ち上がったので、淳一と由佳も椅子から立った。
少し年配で、かなり偉い人のようだ。
彼女が、空いていた赤い席に座ると会場の人も座った。
よく分からないまま、その人に頭を深く下げた。
鮫川さんも緊張しているようだ。
誰だろう?王室の人なんて誰も知らない。
会は、鮫川さんが由佳に日本手話で質問し、英語とイギリス手話で伝える形でゆっくりと進んだ。
由佳の生い立ちや日本の聾教育の様子。
そして淳一との出会い。
彼が競技会に誘ってくれたが、彼女が話せないことに気づかず、しゃべり続けていたので困ったというところで笑い声が起きた。
由佳は笑みを浮かべながら応答している。
俺なんかより余程度胸がある。
淳一のコーチとしてトレーニングを計画し、成果を上げたことを伝えてインタビューは終わった。
彼女は鮫川さんのイギリス手話をくいいるように見ていた。
「イギリス手話、分かるの?」
「ほとんど知らない。でも見ていたら、何を表しているのか見当がついてきた」
「すごいな君は」
「ろうの人間は大体できる。だから外国人とでもろう者なら友達になれる。聴者のジュンには分からない世界」
次は二人のスピーチだ。
先に淳一がマイクの前に立つ。
メモを見ながらゆっくり話すが、ものすごく緊張する。
「ヘレン・ケラーは、一人で光の中を歩くより、友と闇の中を歩く方がいいと言った。僕には両親がいない。闇の中を一人で生きてきたかもしれない。でもオリンピックに出場するため、僕を支えてくれる素晴らしい友ができた。そのことがメダルを取ったことよりうれしい」
拍手を聞いて座った。
涼しい部屋なのに額に汗が浮かんでいた。
次は彼女の番だ。
口話で英語を話し、おまけに日本手話もする。
混乱しないのかな。
横で鮫川さんが、イギリス手話で会場に伝える。
「ヘレンの言葉は、彼から教えてもらった。私は、聞こえない。話すのも苦手だ。私も闇の中にいたのかもしれない。でも彼を知り、共にオリンピックを目指して幸せだった。今日は光に包まれている。その機会を与えてくれたこの国とこの街に感謝したい。私はロンドンを愛している。ありがとうみなさん」
最後の二文はイギリス手話で締めくくった。
話し終ると、会場全体からゆっくりした拍手が始まった。
多くの人が立ち上がり、大きな拍手に変わっていった。
スタンディングオベレーションか。
拍手は延々と続いた。
結局その日も彼女と二人だけの時間は取れなかった。
鮫川さんや由佳たちと別れ、タクシーで選手村に帰った。
由佳と別れるのはさみしい。
光の中で一人か。




