日露通商
かつて香武庁では、出島に外国商人を押し込めて鎖国体制を作った。当時は商人より武士が圧倒的に力を持っており、商人の意を返すことなく政策を実行できた。目的はカトリック禁教のため。同時に日本人の海外渡航も禁止する。
一方で当時より抜け道はあり、対馬の宗氏は朝鮮と通商、薩摩の島津氏は琉球を制圧したうえで貿易をしていた。蝦夷地では蠣崎氏がアイヌと交易をした。……ただし蠣崎氏の場合は交易といってもアイヌをこき働かせ、奴隷の如く扱った。蝦夷地沿岸の各所に交易場を置き、商人らが利権をむさぼっていた。武士はこれらに税をとるかわりに利権を保証する。互いにWinwinの関係を持つ。徹底的に負けているのはアイヌのみ。
……1600年当時はそれでも成り立った。だが150年200年もたてば、周りが同じままとはいかない。赤蝦夷ロシアの接近である。最初は姿こそ見せないが、樺太アイヌや千島アイヌが持ってくる交易品の中に、ロシアの物産が混じるようになった。なぜならその頃にはもうシベリアはロシア領になっていたのだ。コサック兵がテンやキツネの毛皮を求め、東へ東へと進んでいった結果だ。
ただし北の国であるだけに、食糧不足に悩まされた。そこで日本へ毛皮を売り、食糧を手に入れようと考えた。かくしてロシア船は南下。蝦夷地の各所に姿を現し、交易を求めた。蝦夷地を収める蠣崎氏の手には負えず、鎖国体制の名のもとに通商を拒否。香武庁でも当初は東北諸藩の兵を送るなど、警戒態勢を強化していった。
商人らは、ここに目を付けた。従来の蝦夷地交易でも莫大な利益を上げている。それがロシアにまで広がるのであれば、さらなる利益が期待できる……とくに新興商人らはあらたな商権を手に入れようと運動を開始。ロシアが接触を初めて数年後には、蝦夷地を香武庁直轄領とすることに成功した。香武庁の役人らとともに商人は送り込まれ、かつて蠣崎藩のもっていた商権を分け合った。特に高田屋嘉兵衛は函館の街をつくる。将来解禁されるであろう対ロシア通商への足掛かりを築いた。
……この高田屋という男は淡路の出身で、船乗りから身を起こした苦労人である。商売だけでなく、新しい漁法を蝦夷地に持ち込み、漁獲量は大いに高まった。結果としてこれまで虐げられていたアイヌらの生活は向上し、新興商人らの懐も潤った。
同時に蝦夷地の調査も進み、地理状況が確定されたうえでロシア(全権大使はラクスマン)との交渉を開始。1800年を待たずして日露通商条約が成立した。ロシア船は長崎と函館の入港を許可され、日露両国は互いに潤った。日本で当初は食糧を中心に輸出したので、金銀の流出はほぼ起きなかったようだ。ただしロシア側の当初のもくろみは外れた。ヨーロッパでは珍しがられた毛皮は、日本ではほとんど需要はなかった。代わりに木材や肥やし用の魚などを日本へ送ったらしい。
……この交易は、国境も変えた。日露関係のことではない。……シベリアの東にあるのはアメリカ大陸のアラスカ。忠実でもかつてはロシア領だったが、クリミア戦争の戦費調達のためにアメリカ合衆国へ売り払った。……あちらの世界ではシベリア・アラスカ周辺の食糧は日本よりの輸入で保障されている。利益も十分にある。売り払われることはなく、ロシア領として確立した。
ちなみに日露通商の成立は、ペリー来航の50年以上も前だという。