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香武庁  作者: かんから
信忠の政権下
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朝鮮出兵

 織田信忠は朝鮮へ出兵をした。公称20万兵だったという。上西秀勝(秀吉の養子、信長の四男)を総大将として、諸大名を従え朝鮮へ攻め入った。緒戦は勝利続きで、朝鮮首都の漢城ソウルは陥落。続いて平壌ピョンヤンなどの主要都市も占領した。


 これに対し朝鮮は明国に対し援軍を要請。大軍勢を擁し、反撃に出た。日本軍はじりじりと後退し、かろうじて南部を維持するに至る。海においても抵抗され、李舜臣ら率いる朝鮮海軍の猛撃を受ける。この状況に日本側は一時停戦を考え始めた。朝鮮側も自国が荒らされ続けるのはたまらないので、和睦の道を探り始める。


 信忠としては、朝鮮を通り道に明国へ攻め入るつもりだった。しかし現実では無理だと悟った。確かに日本は火力において世界に類を見ないほど高まっている。だからこそ最初の快進撃はあった。しかし兵士の数や物量は、さすがの明国にはかなわない。……そして、こちらの世界でいうところの豊臣秀吉が如く、耄碌もうろくもしていなかった。無理難題な要求はせず、一点だけは必ず引き出すように企んだ。



 それは、”日本国王”に任命されること。


 明国、歴代の中国の冊封さくほう体制に入るということ。中国を宗家と仰ぎ、臣下の礼をとる必要がある。その際に、織田信忠は任じられるのだ、日本国における王者として。ちなみに宗家と仰ぐといっても中国側から具体的な指示を受けることはなく、あくまで互いに独立した関係は保つ。


 かつて足利義満も”日本国王”の任命を受けた。かの人はその名称をあくまで便宜上のものとして用いたが、裏では天皇の玉座をわがものとしようと企んだという。信忠はそのルートにおいて玉座に座らんと考え直したのである。(注:忠実でも、豊臣秀吉は日本国王に任じる提案をされた。だが秀吉は拒否した。)



 交渉は、信忠のかなめを引き出すことができた。梅津うめつ氏の記憶によれば、1590年の出来事であったという。かくして信忠は、日本国王に任じられた。


 日本に二つの玉座が並び立つ状態となる。朝廷は従来の伝統的な権威を背景に、信忠は外より持ち込んだ新たな呼称をもって、二者は危うい関係で存在する。



 ところが





 織田信忠は急死する。死因は不明。同じ1590年での出来事であった。

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