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香武庁  作者: かんから
信忠の政権下
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織田信忠の治世

 あちらの世界では、このような論説があるという。


  ”桓武かんむ織田おだ踏襲とうしゅう説”


 つまり織田信長及び息子の信忠がとった施策は、かつての桓武天皇が行った施策に似ているというのだ。信長は桓武天皇を見習うという意を込めて、氏族を本来の忌部いんべ氏から桓武平氏と改めただろうと推測される。


 では、実際に比較してみよう。



1、宗教との対峙たいじ

 特に仏教勢力とである。桓武天皇は奈良の平城京より長岡京、次いで平安京へと遷都した。目的は政治に絶大な影響を及ぼしていた奈良の僧侶らから影響力を削ぐためてある。武力こそ交えていないが、当時の遷都責任者の藤原ふじわらの種継たねつぐが暗殺されるなど、大きな抵抗は存在した。さらには奈良仏教界に権力を戻そうと、のちに”薬子の変”と呼ばれる兵乱も起きている。

 奈良仏教界に対抗するため、新しい仏教を取り入れて対抗もさせた。真言宗の空海や、天台宗の最澄らがそれにあたる。


 織田信長はどうであろうか。既成の権力に交わっている本願寺や比叡山らと対立、武力討伐をした。一方で仏教勢力に対抗させるため、カトリックの保護に努めた。信忠の治世においては、すでに強い仏教勢力は存在しない。逆にキリスト教の勢力を警戒し、禁教政策を始めた。



2、兵士雇用の改革

 桓武天皇は健児こんでい制というものを実施した。以前までは農民から徴集していた。だがそれでは弊害があり、個々の事情を組み込まれることなく行われたために、耕作業に滞りがでていた。この健児により、役人の次男三男坊を優先的に兵士にさせた。兵士は独立した職業軍人と化し、背景を気にすることなく訓練に没頭。優良な軍団が出来上がった。


 織田信長はどうであろうか。当時の大名のほとんどは、農民にその兵を頼っていた。それがために農繁期には戦争を起こしにくく、敵を倒すチャンスを逃し続けていた。信長は農家出身で将来土地を継ぐことないあぶれた存在……おもに次男三男を職業軍人として雇用。ほかの大名に先駆けて常備兵化を成し遂げた。



3、膨張政策

 桓武天皇と織田信長及び信忠は自領の積極的な勢力拡大に努めた。桓武天皇は東北地方の蝦夷を討伐し、自分の勢力下に収めるため。信長は日本国を統一し、さらには世界までも欲していたという。信忠はというと……信長の政策を踏襲とうしゅうしつつも、自らの事情も織り込んだ。


 すなわち……中国皇帝になることで、日本における朝廷より上位に立つこと。父の仇を討ち、新たな皇家となる。それが朝鮮出兵のきっかけである。(案外、こちらの世界での豊臣秀吉も同じ考えがあったかもしれない。)信忠は日本統一後も朝廷より一切の官職を受け付けなかった。関係は冷え切ったが、かといって朝廷をすぐに滅ぼそうとする勇気もない。だからこそ外征をし、さらなる圧倒的な権力をもつことにより、朝廷を無意味なものとする。最終的にはなくしてしまおうという魂胆があった。


 無論、朝廷側もこの状況を打開しようとさまざまな試みをした。各地の大名に口添えをはかったり、織田家にさまざまなプレゼントをしたり。はたまた信忠暗殺計画もあったらしい。




……とまあ、桓武天皇と織田信長及び信忠の施策が似ていることをお分かりいただけただろうか。


 日本統一後の信忠の政策として、別のものも存在する。刀狩りによる一揆抑制や検地により石高把握などは豊臣秀吉と共通する。諸大名の配置としては……


 北畠きたばたけ信意のぶおき=織田信雄

奥州を担当。今の宮城県辺りに本拠を置き、奥州仕置きを執り行った。

 松平家康=徳川家康

関東を担当。北条の亡き後、治安の安定に努める。江戸の町を築き、治水により田畑を切り開いた。

 柴田勝家

明智光秀に代わり、畿内における守備を担当。及び敦賀を中心とした北方の海運を統括。

 織田信忠

明智勢によって安土城は焼失した。しばらくは岐阜城にて指揮を執ったが、新たに大坂城を建築。本拠を移し、博多から瀬戸内海を通じる海運ルートの整備を始めた。

 神戸かんべ信孝=織田信孝

瀬戸内海及び紀州水道を担当。信忠の推し進める海運ルートの整備を積極的に推し進めた。

 上西じょうせい秀吉=豊臣秀吉

九州を担当。九州仕置きを執り行うと同時に、将来の朝鮮出兵への準備をした。博多を本拠として国際貿易港の整備をする。苗字を羽柴より上西に変えた理由は、”博多を西国における一番の街にしよう。”という目標による。

 



 時代は治まったがに見えたが、次第に大陸への出兵と進んでいく。

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