新庁府崩壊
1893年6月、元総裁で元首相の池田信経が59歳で死去。死因は脳梗塞だった。この大人物の死は各方面に衝撃を与えた。まず新庁府では議事の停止並びに十日間の喪に服すことに決定。ならびに初めての国葬を執り行うこととなった。民衆も同様に倣い、千代田城ならびに岡山城への追弔が後を絶たず。
一方で新庁府に不満を持っていたグループ……主に軍隊からリストラされた士族と彼らを哀れむ同僚、岡山江戸藩閥体制の打破をもくろむ一派、さらには香親会などの織田香武氏復権を掲げる右翼系団体がある。”新軍”創設者の十和田元雪は彼らの支持を受け、さらには妻の内台恵との関係も功を奏した。十和田が遣欧使節団で海外留学した際に、妻を駆け落ち同然で連れて行った逸話が残っているらしい。いざ日本に帰ってみると、偶然にも妻の実家は大坂随一の商家に成長していた。新軍の経費が落ちない時は陰ながら内台家の支援があり、新軍に十分な予算が下りれば軍備品の発注を内台家へ頼む。持ちつ持たれつの関係で両者は成長した。このようなわけで、特に大阪財界の圧倒的な支援も加わる。
6月23日、運命の日。
池田信経の葬儀の列。信経はガラスの棺に入れられ、手は胸元に周りは花で囲まれ、穏やかな表情が見て取れる。……一行は千代田城から八王子西部の新造された霊園へ進む。当時はまだ乗用車は輸入されていないため、頭の者は黒くて大きな馬に乗り、御輿に乗った要人、囲むように役人や神官らがゆったりとしてたペースで歩く。
……遠くで爆音が鳴った。晴れた大空に、一筋の雲が長く伸びる。……誰もが思ったことだろう、それは礼砲だと。正午、甲州街道の道半ば、調布市柴崎……田園風景が広がるのどかな土地だ。
礼砲は……それも正確に、一行へと着弾した。
同じくして、陸軍省・海軍省を反乱軍が占拠。国会や千代田城など主要施設など抑え、十和田元雪は立ち上がった。彼にとっては二度目の裏切りであろう。それもこのたびは首謀者だ。警察庁官舎では柵をまたいで交戦中、首相の西川剛樹らも捕縛される。
この動きを伝えられた大阪では、暴徒化した士族や民衆らが大阪城へ乱入。かつて香武庁時代に大坂庁府の役人だった家族や、大阪の首都復帰により職にありつこうとする者らが中心だ。そのまま大坂城を奪う。他の地方ではこれまで憂き目を見ていた軍隊が独自の動きを見せ始める。彼らはそれぞれ軍閥へと化していくのだが、軍閥の盟主としての十和田を認めた。
……死者は千人を超すといわれている。十和田率いる反乱軍はクーデターを成功させた。今江康治ら政府要人の少数は東京より逃げ出すことに成功する。混乱の中、6月25日に岡山県岡山市(翌日より岡京に改称)で在地の役人らが”日本国連邦臨時政府”を設置し、新庁府に属する軍隊は反乱軍に抵抗しようとした。だが四方八方から攻められて、願いは潰えた。
……事は静まり、7月1日。十和田元雪は大阪への還都を指示。香武庁復興を宣言し、天皇を幼年の香武義月とし、行方をくらましていた香武義輝を首相として復帰させた。ただし彼は自ら皇位を狙う気はないとして臣下筋の苗字を名乗り、条良義輝と改める。
義輝にしてみれば今度こそ皇族親政を推進する気でいる。だが実際は十和田にそんな考えはなく、あくまで飾り物として使おうとの魂胆だ。なので次第に義輝が邪魔になっていく。
崩壊した新庁府は、ロシア租借地の函館に亡命政府を置いた。生き残った今江康治が初代総裁に就いたが、同年11月に急死。新たに近藤一郎が総裁に就任した。
十和田らのことを梅津氏の属する新庁府では”軍事政権”と呼ぶが、軍事政権はロシアに亡命者引き渡しを要請。だがロシアは無下に断った。腹の底には新庁府を日本唯一の政権と認め保護することで、ロシアが日本へ攻める口実になると考えていたのかもしれない。




