国会と憲法
1881年、あちら側の世界では国会が開設された。忠実と比べて9年早い。あくまで諸外国に早く認められたいがためだったが、民選議員の力は若干弱く定められていた。同じくして憲法も発布され、主権は国民であり、軟禁されていた香武の皇族は国家の象徴として残され続けることに決まった。なのである意味で”香武庁”は存続したといえる。政界には香武氏と祖先を同じくする者も多くおり、心情に配慮した結果だ。池田信経もその一人であり、信経より四代前に御三家の南海館家より婿を受け入れている。長い平和な時代を越してきたせいで、他家にも複雑な婚姻関係が存在した。
新庁府は、三権分立で動く。立法司法行政の三つだ。
行政府の第一代内閣は民選議員(=下院)の選挙前であったので、内閣総理大臣には新庁府総裁の池田信経がそのまま横滑りして就任。二院制で上院と下院に分かれる。上院初代議長には広島藩浅野家出身の師島長道が就いた。上院の議員は地方の県令が選んだ人物で構成された。
建前では県令は中央より派遣された役人であり、その役人は当地の優れた人物を選んで上院に送り込む。だが実際は中途半端な廃藩置県によって、旧藩主が県令に居座り続けるケースが多かった。よって旧藩主の有力家臣が上院議員となり、前時代の気風を保つ結果に陥る。つまり”我らは独立した大名家だ(もしくはその家臣)”という意識がどこかにあった。日本として一つにまとまろうとする感覚に劣り、中央集権を目指す新庁府の妨げになった。
その第一の弊害として、軍隊の問題があった。強くするためには各県(=各藩)の兵を統一下で雇用し訓練する必要がある。だからこそ新庁府は連邦制から集権国家をめざし、財政を一所に集めようとした。だが地方は抵抗する。地方軍隊の主要部を担う旧藩士らも、職がなくなるのではないかと反発したのだ。統一軍隊ができると合理化が進められ、縁故関係なく余剰人員がカットされる。
確かに忠実において旧藩士の多くが暇乞いをされている。(秩禄処分と呼ばれる。)原因は近代化された武器を使用し訓練する上で士族と平民にさほどの差がないこと。逆に士族に限って使えないことが多く、それは平和な時代に身分を保証されて鍛錬を怠ってきたせいであり、しかも剣術の腕さえあれば何とかなるなどという前時代の考え方の者もたくさんいた。
結果として兵制改革はしきれず、各県はそれぞれの大きな財政基盤のもとに軍備を増強。一方で新庁府は国会を通じて民の声を取り入れるなどはできたが、財政が整ってないので大きな施策はしずらいまま。
第二代から第五代内閣まで上院議員の者が首相に選ばれたため、大きな改革が起きにくい(あえて必要としない)。いよいよ1892年に発足した第六次内閣の首相は民選議員の占める下院から選ばれた。東京区選出の西川剛樹であり、上院の今江康治(小次郎から改名)らと組んで、中央集権へと舵を切った。




