下関砲撃事件
新たな大老には、広島藩主の浅野菊友が就任した。前任の条良康朝とは逆の政策をとっていくこととなる。バックには博多藩隠居の上西宗家。彼は決して表立とうとはせずに、影のフィクサーに徹し続けた。
民衆の中にはこれまでの弱腰外交をなじる声が多くあり、諸藩においても下級武士らを中心に”攘夷”へ進もうという動きが高まった。
ここで注意なのが、忠実における”尊王攘夷”という考え方がある。尊王とは幕府より朝廷を敬い、天皇家第一に考えること。攘夷とは日本を悪くする根源は外国であり、彼らを打ち払えば平和が訪れるという考え方である。
ところが、あちら側では”攘夷”のみである。なぜなら尊王を訴えたところで、それこそ当たり前だからである。天皇家こそ織田香武氏であり、香武庁、すなわち大坂庁府である。こちら側でのように朝廷と幕府の二元体制ではない。もとより一つなのだから、対立のしようがない。……したがって、庁府を打倒しようものならば、新たな国家を作らねばならない。この論説を陰で考えていた人物は二人いたのだが、この話は次に譲る。
浅野は攘夷の考え方にのっとって、ひとまずは大坂に近い敦賀と白浜の二港を閉ざすことに決定。残り三港(長崎・新潟・函館)は次の正月をもって閉める。日本国内の海湾重要拠点には砲台の建造を急がせ、外国船に目を光らせた。
これまで政治に携わってきた、それも康朝卿に考えの近かった開明派と呼ばれるグループは恐れおののいた。条約に反して港を閉ざす真似をしたら、諸国がどう行動を起こすかわからない。攘夷派の連中は列強の強さを知らないのだと。
……だが浅野の政治は民衆に圧倒的に支持されている。京都藩条良家も及び腰だ。そして……報復人事でより開明派の多くが閑職に追いやられ、発言力を失う。
さらに攘夷派は勢いに乗る。1860年(=康朝卿入獄と同年)春には長州藩白石家の国栄党という攘夷の一派が下関に集結。博多藩上西家や小倉藩黒田家にいる仲間も合流し、外国船めがけて砲弾を撃ち込み始めた。どの国であれ、お構いなし。浅野らは拍手喝采し、さらに他の者も実行せよと推奨した。翌月には博多藩や小倉藩、出雲藩毛利家や薩摩藩島津家にも拡大。……攘夷論がはやらなかったのは土佐藩山内家ぐらいだっただろう。かの藩はペリー艦隊の直接攻撃を受け、敵の実力を知っていた。
列強は黙ってくれなかった。同年夏に、イギリスを発起としてアメリカフランスオランダの四ヶ国艦隊は、あわせ20隻の軍艦で下関を攻撃。国栄党は壊滅し、白石家の正規軍も動いたようだが戦わずして逃げる。下関と彦島は占領された。
続いて別の隊が博多めがけ集中砲撃をする。街の半分が焼け落ち、民の多くが犠牲になったという。他には松江や鹿児島でも大きな被害を出した。
……民衆は、本当の実力を知った。日本の力を過信していたと。攘夷を仕掛けた罪は大老の浅野菊友へ向かい、辞任へと追い込まれた。一方で陰に徹し続けた上西宗家は責任をすべて浅野へなすりつけ、庁府内で悠々と生き残る。
四ヶ国に要求された損害賠償も支払わなければならない。第三者としてにロシアが入り(ロシア船は攻撃を受けていない。蝦夷地周辺しか船を走らせていないから。)減額には成功したが、代わりに函館の租借を要求。強いリーダーシップがある者がいなくなった庁府は、しかたなく受け入れに至る。すでに負債の多さで首が回らない。
そして国としての借金返済もさることながら、改めて民衆は外夷を意識。……康朝卿時代に始めた銀行が、ここで大きな混乱をもたらしてしまう。大坂銀行は紙幣を発行し銭で足りない分を補ってきたが、それは兌換紙幣であった。兌換であれば紙幣に応じて引き換えるべき金銀の量は決まっており、いつでもその取引に応じなければならない。(ちなみに現代日本で用いられているのは不換紙幣といい、紙幣と金銀の相対価格は常に変動し、銀行へ紙幣を持っていっても金銀に引き換えてはくれない。)世の中がいつどうなるかわからない不安に襲われ、紙幣より金銀で持っておこうという者らが銀行へなだれ込んだ。
そうしているうちに、銀行で保有していた金銀が尽きた。蔵にあるコメを金銀に替えようにも、商人らは出し渋る。……いつしか紙幣は価値のないものへと変わり、銀行および庁府の信用は急降下。各地で暴動が発生し、治安も悪化した。
世も末である。
銀行という名称を用いているが、当時の銀行に貯蓄部門は有していない。
あくまで紙幣発行のみの機能である。