不平等条約
大坂では議論が紛糾。だが早く対応はしなければならない。目の前の淡路島に敵船がいるのだから。
……しいて一つだけいえることがあるとすれば、難波の湾内にこれ以上入らせたくない。大坂の民衆に黒船を決して見せてはならぬ。……動揺は計り知れない。
とりあえずペリー率いる太平洋艦隊へは、淡路島を離れて紀伊国白浜への移動を願い、そこで条約締結の話し合いを行うと約束した。
ここであろうことか、大坂庁府は全責任を紀伊藩南海館家へぶん投げた。南海館家は織田香武氏と血を通じる一族で、御三家の中の一つである。由緒正しき織田信雄の子孫であるので、立派に勤めを果たしてくれるだろう……というのは建前。もとをただせば四国や淡路島を指導する役目を南海館は担っている。そこで起きた問題なのだから、お前たちが適当に対処しろというのが庁府の本音。庁府は責任を負いたくない。悪い結果になろうと、南海館に押し付ければいいだけ。
当時の紀伊藩当主は南海館信隆。御三家だけあって教養深かったが、いかんせん相手は庁府海軍を打ち負かしたアメリカ。紀伊藩では交渉をできる限り引き延ばして、結論を出すのを遅らせようとあらゆる手段を尽くした。だがペリー提督は苛立ち、大きな机を叩き割った。信隆は潮時だと感じ、日本を代表してアメリカと条約を結んだ。日米和親条約という。今後は通商に関してことを詰めるという約束もついている。
この条約、民衆にしてみればアメリカの武力に屈したかのように見えた。実際もそうなのだが、大坂庁府では民衆の批判を紀州藩を罰することによって避けようと考える。かくして南海館信隆は藩主より退き、紀州藩の領土は削られた。
だが御三家の人事を操るなどやりすぎだという声が庁府内から噴出。民衆もやはり大坂の弱腰を見抜いたようで、内外から批判を浴びることとなる。追い詰められた首脳陣は、これまでの政治体制を破り、臨時職である”大老”を設置することを決定。……民衆の支持をあつめ、恨みを持つ紀州藩や庁府内の批判を抑えることができる人物。
御三家筆頭で京都藩、条良康朝の登場である。
藩主でないため身は軽く、優秀だと評判もいい。遣欧使節団の一員でもあったため、諸国の事情にも通じている。適任だ。
……一方で、かつての規約に”老中と大老になる者は、香武一門・御三家・大藩出身であってはならない”とある。権力の集中を防ぐためだった。大きな矛盾をはらみながら、康朝は腕を振るい始める。