大塩一揆
治世は、十一代目の香武義秀の時代に入る。
ロシアとの通商、特に武器の輸入により、国内の金銀保有量が減少。小判の流通量も低下し、物価は高騰していった。香武庁も場当たり的な方策で、なんとか民衆の不満をそらしていた。職業訓練場を作ったり、未開拓の土地を与えたり。ただし商人の発言力はかつてより高まっており、大ナタを振るうことはできない。
……どうも”こちら側”と”あちら側”の世界。気候変動や自然災害の起るタイミングが非常に似通っている。
天保の大飢饉。1833年から1839年まで、全国的な凶作が続いた。ただでさえ悪性インフレなのに、長く続く収穫量減少が拍車をかける。……民衆は、商人を敵視。原因はロシアとの交易であるし、コメの値段を私欲によって吊り上げているせいだとして、各地で一揆や打ちこわしが多発した。
……大商人は、自分の操り人形と化した武士たちを私兵の如く扱い、店の周りを守らせる。武士と民衆は押し問答の末、斬り合いへと発展してしまった。民衆は武士をも敵視し始める。
…………
当時、堺はスラム街と化していた。戦国期であればたいそう栄えた町であったが、香武庁の治世に入ってより衰退が進んでしまった。原因として、上流階級の民が北の大坂に移り住んだこと。大阪平野の開墾が進み、その際に河川の流れを変えた。次第に堺周辺の港には砂がたまり、船の置き場として使えなくなってしまった。結果として北側に位の高い人物が住まい、南側に下層民がたむろするようになってしまう。
さらに諸国より食えなくなった浮浪者が集まった。彼らの怒りは頂点に達し、大規模な一揆をおこすまでに至る。……すでに一揆ではなく、兵乱なのかもしれない。
忠実での大塩平八郎の乱と該当するかもしれないが、それ以上に大規模なことだったらしい。季節は夏。一揆軍は堺の街から大坂を目指す。数は一万人を超したという。(忠実では300人)いたるところに火がつけられ、加えて海から吹く風にあおられ、100km2も延焼。大坂城は水堀が遮ってくれたおかげで焼け落ちることはなかったが、大坂の街ほぼすべてが焼け野原と化した。
この忌々しき事態に、商人との婚姻もせず金銭的援助も受けることのなかった武士ら、通称”改革派”が立ち上がることとなる。