魔界の為に
ダメだ……一睡もできなかった……。
昔から翌日にテストやら発表会やら緊張する出来事が控えている時は決まって寝つけない体質だったが、それに反して頭の中だけは妙に冴えているのが不思議でならない。
「……とりあえず着てみるか」
この任務に用意された人間界の衣類。眺めはしたもののまだ触れてもない。
魔界でも貴族が好む“スーツ”と呼ばれる人間界より伝わった衣服は実際に腕を通してみると肩が張って窮屈この上なく、その見た目通り儀礼的な正装を思わせる代物だった。
いざって時に戦闘の想定がされているのかは甚だ疑問だったが、現時点で支給されているのがこの一着である限りはこれで乗り切る他ない。己の心にそう言い聞かせ、徹夜して書いた冴えない遺書を破り捨てた俺は集合場所として指定された郊外の古代遺跡群――通称“次元の扉”の前に一時間も早く到着した。
――が、やはり誰もいない。当然だ。
周囲の静けさから察するに俺が一番乗りということらしい。
やれやれと久しく見上げた魔界の空は相も変わらずどんよりとしていて俺の心に似通うものがあったが、空は俺と違って自由だ。
分かりきったことだが、俺はただの捨て石。誰も期待なんかしちゃいない。 上層部からすれば、雑兵一人の死と引き換えに何か有益な情報を一つでもすくい上げられたら儲けもの程度にしか考えていないだろう。
奴らからしたら末端の兵士なんて掃いて捨てるほどいる消耗品に過ぎないのだ。
(……くそ、ツイてねえ)
こんな事なら民間に就職すればよかったと、この数時間で何回思ったか。
そんな後悔をする時間こそあったが、やがて潮時ってやつが訪れた。
「時間だ。我々が扉を開いている間に次元の扉に飛び込んでもらう」
公認邪術士会の紋章が刻まれたローブを纏った者達は定刻に瞬間移動で現れた。
感じる魔力は精鋭の名に恥じないもので、噂通り近寄り難い連中であることは間違いなさそうだ。
「では、さっそく始めるとしよう」
連中にとっては扉を開くのが仕事だとはいえ、簡単に言ってくれる。
当の本人である俺としては過去最大級と言っていいぐらいビビっていたが、ここで逃亡はおろか――弱音を吐こうものなら反逆罪で殺されてもおかしくない。
ゆえに表面上、口から出る言葉は軍ではお決まりのやつだと相場が決まっている。
「魔界の為に(ル・ロンヴァルディア)!!」
流行病にかかってあっさり死んだ父よ。
持ち家だけを残して男と蒸発した母よ。
短い人生ではありましたが、楽しゅうございました。
(……それでは、逝って参ります)
過去と決別するように俺は開かれた超常的な扉の中へ勢いよく飛び込んだ。