暗闇
まるで泥の中にいたかの様だった私の意識は突然の出来事に覚醒した。
最初に感じたのは冷たさだった。
続いて身体が沈んでいく感覚。下に向かって引っ張られるのではなく、身体そのものが沈んでいく。
不思議なことに視界は暗闇のままだった。
目を開けている自覚はあるのに周りの光景が見られない。
身体が沈んでいくことと視界が暗闇であることに私は慌てた。さらになんとか沈まないように手足を動かした。
すると、やや重いものをかき分ける感触が確かに掌から伝わってきた。それと同時に身体が僅かに上へと浮かび上がるのも。手足を動かせば動かすほど、身体は浮かび上がった。
そこでようやくわかった。そう、私は水の中へと沈んでいたのだ。
依然として視界から周りの状況は伝わってはこないが、それでもなんとくだが、今、自分が置かれている状況が少しわかってきた。
どうやら私は頭に何かを被せられて、水の中へと落とされたらしい。手足が使えることから縛られていないのは間違いない。
沈まないように立ち泳ぎでバランスを取りながら、なるべく音を立てないようにしてみる。視力を除いた、感覚が私に残された目であり、手足だった。
まずは顔を覆う何かに触れてみる。
――硬い、そして四角い。
何かはわからないが、箱のようなものを私は被らされていた。そう言えば、水の中に落とされているのに口からは何も入ってこないこと、今になって気がついた。その理由はどうやら、この箱が水の浸入を阻止していたようだ。
箱は完全には密閉されてはいないようで、後頭部には僅かな通気口が存在していた。そこから水が少し入ったのか、僅かに冷たさを感じる。
完全に水に沈みさえしなければ窒息死と溺死になることは少なくとも今すぐにはならないことに安堵した。
だが、それも時間の問題だ。私の体力が尽きたその時こそ、最後なのだから。
周りの音に耳をすませてみるが、聞こえるのは時折り水をかく音だけで、それ以外は何も聞こえない。
何も見えない、聞こえないから、本当に暗闇の中にいるとさえ思えた。
どうして、私はこんなところにいるのか、私は記憶を遡ってみた。
最後に思い出せるのは――誰かと言い争っていたようなことだった。酒場で誰かと話していて、その後口論になり――だめだ、それ以上は思いだせない。
何を話していたかも曖昧だ。どうやら、そうとう飲んでいたらしい。僅かに思い出せるのは何か異国の宗教のことだった気がするが、具体的にどんな話をしていたのかは思い出せない。
記憶を探ることに集中しすぎて、私は身体が僅かに揺れていることに気がつくことが遅れた。
いや、身体が揺れているのではなく、流されていると言ったほうがいいだろう。
波によってなのは確かだが、なぜ急にと疑問が浮かぶ。先ほどまで水面は私が立ち泳ぎする以外は動くものは何もなかったはずなのに。
ふと頭に不安が過る。
この波を起こしているのはもしや鮫ではないのかと。
だが、いくらなんでも、私の身体が揺らぐほどの波を起こすとなると、その鮫はそうとうな大きさと言うことになる。はたして、そんな鮫がいるだろうか。
しかし、私が思考している間にもどんどん波は大きくなってくる。
なんだこれは? どうなっているのだ?
私に何かが近づいてきているのは間違いない。だが、それはいったいなんなのか。その正体とは?
より一層波は高くなる。
だんだんと私の中の恐怖心が蛇のように鎌首を持ち上げ始める。
先ほどまでバランスを取れていたはずなのに、今では立て直すのも難しくなってきている。これは波のせいなのか、それとも恐怖心から来るもののせいなのか。
さらに強い波が私を襲った。私の身体は一度、水の中へと沈められて、縦なのか横なのかもわからないほどに水の中で回転した。とっさに後頭部の通気口を手で塞いだ。
このまま深い水底に沈んでいくのか、そう思った矢先、突然、波が止んだ。水の中からでもそれは十分にわかった。
ゆっくりと水面に出ると、私は荒く息をついた。
あれだけの大波だったのに嘘のように静まり返っている。
水面も波一つなく――いや、微かに揺れを感じる。
だが、これは……、まるで、水槽全体を外から微かに揺らしているような、波も起きないほど微かな揺れである。
唐突に私は自分の置かれている状況を理解してしまった。
なんと言うことだ。まさか、こんな……。
考えるだけでも恐ろしい。これは恐怖心が生み出した想像にすぎない。だが、その想像が頭から離れない。
しかし、先ほどから感じるこの揺れの正体をどうやって説明したらいいのだ!
どうすれば……おお、神よ……
『私』がどうなったのかは皆さんの想像にお任せします