第9話 予算書は、この領地のためのもの
三日間、考えた。
帳簿を開いても、数字の向こうにディートリヒの顔が浮かぶ。蜂蜜酒の品質検査をしても、あの人が「よくやった」と言った短い声が耳に残る。交易路の通行量を計算しても、一緒に視察した時のマントの重さが肩に蘇る。
帳簿は裏切らない。でも、帳簿だけでは生きていけないことを、私はこの半年で知ってしまった。
朝。覚悟を決めた。
ディートリヒは執務室にいた。腕の包帯はまだ巻かれているが、片手で書類を処理している。窓辺の花瓶には、今朝も白い小花。半年前、この部屋で初めて見たのと同じ花。
「旦那様。お話があります」
ディートリヒがペンを止めた。顔を上げる。その目が、真っ直ぐにこちらを捉えた。
「私はここにいます」
声が震えた。でも、止めなかった。
「白い結婚の契約があろうとなかろうと、この領地に——いえ」
言い直す。帳簿の言葉ではなく、自分の言葉で。
「ここに、いたいのです。この領地のためだけではありません。あなたの……あなたのそばに、いたいのです」
言ってしまった。
心臓が痛い。顔が熱い。褒められた時の何倍も動揺している。
ディートリヒが立ち上がった。椅子が引かれる音がやけに大きく響いた。
「……俺は言葉が下手だ」
知っている。ずっと知っていた。
「だから、見てほしいものがある」
机の引き出しを開けた。取り出したのは——契約羊皮紙。昨夜、私が見て元の場所に戻したもの。
(……あの人も、見ていたのだ。この赤を)
二人で並んで羊皮紙を広げる。「互いに干渉しない」の文字が、燃えるような赤に染まっている。
「この赤は、契約の当事者が恋愛感情を抱いていることの証だと、ブルーノに教わった」
(ブルーノ、あなた知っていたのね。知っていて黙っていたのね)
「俺の方が先に赤くなっていた」
息が止まった。
「予算書を読んだ日から、赤くなり始めていた。ブルーノが気づいて教えてくれた。あの時はまだ、何の感情かわからなかった。戦場では恐怖も怒りも制御できる。だがこれは——制御の仕方がわからなかった」
今まで聞いた中で、一番多くの言葉。不器用で、順序がおかしくて、感情と事実が混在していて。でもだからこそ本当だとわかる。
「花を飾ったのは、お前が執務室で過ごす時間を良くしたかったからだ。護衛と言って視察に同行したのは、お前のそばにいたかったからだ。『我々の』と言ったのは、お前の仕事を自分のものにしたくなかったからだ。ルートヴィヒの前で引き留めなかったのは——お前を契約で縛りたくなかったからだ」
全て。全て、行動で示してくれていたのだ。花も、護衛も、「我々の」も。半年分の沈黙の全てが、一つの感情から生まれていた。
帳簿なら読めるのに、この人の行動は読めなかった。いや——読めていたのだ。読めていたのに、信じる勇気がなかっただけだ。褒められると固まる私は、愛されることにも固まっていた。
目の奥が熱い。泣きそうだ。でもこらえる。
「……それを、言葉で、言ってくださればいいのに」
「……善処する」
善処。軍人らしい回答。思わず笑った。小さな、震える笑い。
「予算書は、この領地のためのものです」
声を整えて言った。
「——あなたのための、ではまだありませんけれど」
ディートリヒの口元が動いた。噛み殺した笑み。鋭い目がほんの少しだけ細くなる。
——笑った。この人が、笑った。
その顔を見た瞬間、もう戻れないと思った。戻る気もなかった。
◇
その日の夕方、ギルド長フランツが辺境伯領を訪れた。定期の交易報告のためだったが、開口一番、彼はこう言った。
「辺境伯夫人。ヘッセン伯爵領で少々騒ぎがありまして」
応接室で向かい合う。フランツは商人らしく事実だけを並べた。
ヘッセン伯爵領の交易収入が前年比四割減。伯爵が嫡男ルートヴィヒに新しい交易計画を要求したが、提出された計画書は「数字の根拠がない」と突き返された。三十年以上領地を治めてきた伯爵の目は厳しい。
「そして——これは商人の間で広まっている話ですが」
フランツが声を落とした。
「辺境伯領の関税設計と、ヘッセン伯爵領の旧設計に、同じ表記法が使われていると。数字の横に添えられた、小さな花の記号」
心臓が跳ねた。
「伯爵夫人エルヴィラの耳にも入ったそうです。あの計画書を書いたのは、息子ではなかったのか、と」
フランツは私の目を真っ直ぐに見ていた。商人の目だ。全てを知った上で、確認している。
「……私からは何も申し上げることはございません」
「ええ。そうでしょうとも」
フランツが頷いた。その目に、ほんの微かな敬意が見えた。
「もう一つだけ。ヘッセン伯爵が仰っていたそうです。『あの計画書と同じものが書ける人間が欲しい』と。——辺境伯夫人、あなたのことでしょう」
「さて。計画書を書ける人間は、きっとこの国に何人もおりますわ」
「その通りです。でも、あの花の記号を使う人間は一人しかいない」
フランツが微笑んだ。商人の微笑みだ。全てを知っている、という顔だった。
ルートヴィヒ様の計画書が自力で書けないことが、家族の前で露見した。社交の天才は、数字の前では無力だった。
復讐のつもりはない。私はただ、自分の領地を良くしていただけだ。その結果、離れた場所で何かが壊れた。
(……恨んではいません。ただ——数字は、帳尻を合わせる。どこかで必ず)
◇
夕暮れの執務室で、ディートリヒが言った。
「白い結婚の契約を……破棄したい」
微笑んだ。初めて、自分から微笑んだ。養蜂農家を説得した時も、フランツと交渉した時も、定期市を成功させた時も——笑ったのは結果が出た後だった。でも今は、まだ何も始まっていないのに、笑っている。
「来期の予算書を提出してからでもよろしいですか?」
「……急ぐ理由がないなら」
「ええ。数字は逃げませんから。——あなたも、逃げませんよね?」
「逃げない」
短く。素っ気なく。でも、確かに。
窓辺の花瓶の花が、夕日に赤く染まっていた。契約羊皮紙と同じ色。でもこの赤は、もう消える必要のない赤だった。
明日からは、新しい予算書を書こう。この領地のために。そして——この人のために。
予算書を読んだ翌朝から飾られ続けた花と、真っ赤に燃えた契約書の文字。どちらも、言葉にできなかった人の、言葉の代わりだった。




