第8話 言葉
元婚約者が笑顔で城門をくぐった時、私は予算書ではなく拳を握っていた。
ルートヴィヒ・フォン・ヘッセンは、相変わらず完璧な笑顔だった。金髪が秋の日差しに輝き、仕立ての良い外套が風になびく。従者を二人連れ、贈り物の箱を抱えた使用人まで引き連れている。形式は完璧。中身が腐っているとしても。
「突然の訪問を許してほしい、辺境伯。少しお話ししたいことがあってね」
ディートリヒが応接室に通す。私も同席した。辺境伯夫人として、当然の権利だ。
ルートヴィヒ様は椅子に深く腰掛け、足を組んだ。余裕の姿勢。でもその目が部屋の中を走査したのを私は見ていた。壁の交易路地図。机の帳簿。窓辺の花瓶。全てに目を通し、何かを計算している。
「本題に入ろう。ナディア、君に相談がある」
私の名前を呼ぶ声が、昔と同じトーンだった。親しげで、少し上から。
「辺境伯領の経営再建は見事だと聞いている。そこで——経営顧問として、ヘッセン伯爵家に来てもらえないだろうか。報酬は保証する。辺境伯家への賠償金も用意できる」
空気が凍った。
ディートリヒの指が、肘掛けの上でわずかに動いた。それ以外、微動だにしない。
「……ルートヴィヒ様。いくつか確認させてください」
「ああ、何でも」
「私は現在、ヴァイセンブルク辺境伯夫人です。白い結婚ではありますが、婚姻関係にあります。その私に、他家への移籍を提案なさるのですか」
「白い結婚なんだろう? 夫婦の義務もない。もっと良い条件で、君の能力を活かせる場所がある。没落男爵家の娘ではなく、ヘッセン伯爵家の顧問としてね」
(——あなたが私の計画書を盗んだまま維持できなくなったから、私を呼び戻すのね。しかも出自を武器にするのは相変わらず)
怒りが腹の底で煮えている。でも顔には出さない。数字を扱う時と同じだ。感情を排し、論理で返す。
「お断りいたします」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「私の仕事はここにあります。辺境伯領の交易路を設計し、蜂蜜酒を開発し、定期市を運営し、水路を改修し、農家と交渉してきました。この半年で作ったものを、私は手放しません」
ルートヴィヒ様が目を見開いた。婚約していた頃の私は、こんな話し方をしなかった。あの頃は計画書を黙って差し出し、使ってもらえればそれでよかった。
でも今は違う。これは私の仕事だ。私の数字だ。私の領地だ。
「考え直してくれないか。報酬は十分に——」
「金額の問題ではありません」
きっぱりと言い切った。ルートヴィヒ様の笑顔に、初めて亀裂が入った。
その時、ディートリヒが口を開いた。
「彼女の意思を尊重する。決めるのは彼女だ」
静かな声だった。辺境伯としての威厳に満ちた、冷静な宣言。
——でも、それは。
(引き留めてくれない、のですか)
ルートヴィヒ様は口を開きかけ、しかし私の目を見て、何かを諦めたように肩を落とした。「……改めて考えてくれ」と言い残して去った。あの完璧な社交の笑みが、最後まで戻らなかったのが印象的だった。使用人が置いていった贈り物の箱を、ブルーノが黙って片付ける。中身は王都で最も高価な茶葉だった。買収の匂いがする。
◇
応接室で、ディートリヒに向き合った。
「旦那様」
「何だ」
「なぜ、引き留めてくださらなかったのですか」
声が震えていた。
「……君の自由だ。白い結婚の契約通り、互いに干渉しない。俺にはお前を縛る権利はない」
正しい。
正しいが——その言葉が、一番残酷だった。契約。干渉しない。権利。全部正しい言葉で、全部冷たい。
「その契約の話は、もうやめてください」
丁寧語が崩れかけている。
「やめてくださいと言っているのです。私は——」
言葉が詰まる。ここにいたい。あなたに必要とされたい。白い結婚の契約なんかじゃなく、私個人として。
でも、それを口にする勇気がなかった。
ディートリヒは黙っていた。いつもなら少しは読めるようになった表情が、壁のように閉ざされている。
この人は、引き留めたかったのだろうか。引き留めたいのに、契約を盾に自分を抑えたのだろうか。それとも、本当にどうでもいいのだろうか。
わからない。帳簿なら読めるのに。数字なら理解できるのに。この人の沈黙だけは、どう読んでいいかわからない。
「……すみません。失礼しました」
頭を下げて部屋を出た。廊下を早足で歩く。泣きはしない。ただ、爪が掌に食い込んでいた。
◇
夜。部屋で一人、考えていた。
怒りの正体はわかっている。ディートリヒに怒っているのではない。「引き留めてほしかった自分」に怒っている。白い結婚の契約を自分で了承しておいて、今さら何を求めているのか。あの人は契約通りのことを言った。それが刺さったのは、私が契約の外にあるものを望んでいるからだ。
(矛盾している。私が矛盾している)
ふと、思い立った。
執務室に行く。夜の執務室は無人だ。ディートリヒの机の端に、あの羊皮紙がある。三ヶ月前に赤みを帯びていた、白い結婚の契約書。
広げた。
「互いに干渉しない」の文字が、真っ赤に変色していた。
赤い、なんてものではない。燃え上がるような深紅。まるでインクが脈打っているように見える。
契約羊皮紙は嘘をつかない。この赤は、当事者のどちらか——あるいは両方が——恋愛感情を抱いていることの証だ。
(三ヶ月前、うっすらと赤かった時に、気づくべきだった。経年劣化だと自分に言い聞かせたのは、気づきたくなかったからだ。認めてしまったら、もう数字の世界には戻れない)
でも、赤い文字は事実だ。帳簿と同じだ。見たくないからといって、数字が消えるわけではない。
今は——赤い文字が、目の前で燃えている。
(私の感情の、証拠。あの人の感情の、証拠。それとも——)
羊皮紙を元の場所に戻した。手が震えていた。震えが止まるまで、机の前に立っていた。
帳簿なら読めるのに。契約書の赤い文字は、帳簿よりもずっとわかりやすいのに。
わかりやすいからこそ、怖い。見ないふりをするには、もう赤すぎた。その赤は、もう言い訳の余地を残していなかった。
窓の外で風が木々を揺らしている。秋が深まっていた。辺境伯領の冬は長いと聞く。
あの人のいる冬と、いない冬。どちらを選ぶかなんて、考えるまでもなかった。
答えは、とっくに出ていた。




