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白い結婚だったはずの夫が、なぜか私の書いた予算書にときめいているのですが  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第8話 言葉

 元婚約者が笑顔で城門をくぐった時、私は予算書ではなく拳を握っていた。


 ルートヴィヒ・フォン・ヘッセンは、相変わらず完璧な笑顔だった。金髪が秋の日差しに輝き、仕立ての良い外套が風になびく。従者を二人連れ、贈り物の箱を抱えた使用人まで引き連れている。形式は完璧。中身が腐っているとしても。


「突然の訪問を許してほしい、辺境伯。少しお話ししたいことがあってね」


 ディートリヒが応接室に通す。私も同席した。辺境伯夫人として、当然の権利だ。


 ルートヴィヒ様は椅子に深く腰掛け、足を組んだ。余裕の姿勢。でもその目が部屋の中を走査したのを私は見ていた。壁の交易路地図。机の帳簿。窓辺の花瓶。全てに目を通し、何かを計算している。


「本題に入ろう。ナディア、君に相談がある」


 私の名前を呼ぶ声が、昔と同じトーンだった。親しげで、少し上から。


「辺境伯領の経営再建は見事だと聞いている。そこで——経営顧問として、ヘッセン伯爵家に来てもらえないだろうか。報酬は保証する。辺境伯家への賠償金も用意できる」


 空気が凍った。


 ディートリヒの指が、肘掛けの上でわずかに動いた。それ以外、微動だにしない。


「……ルートヴィヒ様。いくつか確認させてください」


「ああ、何でも」


「私は現在、ヴァイセンブルク辺境伯夫人です。白い結婚ではありますが、婚姻関係にあります。その私に、他家への移籍を提案なさるのですか」


「白い結婚なんだろう? 夫婦の義務もない。もっと良い条件で、君の能力を活かせる場所がある。没落男爵家の娘ではなく、ヘッセン伯爵家の顧問としてね」


(——あなたが私の計画書を盗んだまま維持できなくなったから、私を呼び戻すのね。しかも出自を武器にするのは相変わらず)


 怒りが腹の底で煮えている。でも顔には出さない。数字を扱う時と同じだ。感情を排し、論理で返す。


「お断りいたします」


 声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「私の仕事はここにあります。辺境伯領の交易路を設計し、蜂蜜酒を開発し、定期市を運営し、水路を改修し、農家と交渉してきました。この半年で作ったものを、私は手放しません」


 ルートヴィヒ様が目を見開いた。婚約していた頃の私は、こんな話し方をしなかった。あの頃は計画書を黙って差し出し、使ってもらえればそれでよかった。


 でも今は違う。これは私の仕事だ。私の数字だ。私の領地だ。


「考え直してくれないか。報酬は十分に——」


「金額の問題ではありません」


 きっぱりと言い切った。ルートヴィヒ様の笑顔に、初めて亀裂が入った。


 その時、ディートリヒが口を開いた。


「彼女の意思を尊重する。決めるのは彼女だ」


 静かな声だった。辺境伯としての威厳に満ちた、冷静な宣言。


 ——でも、それは。


(引き留めてくれない、のですか)


 ルートヴィヒ様は口を開きかけ、しかし私の目を見て、何かを諦めたように肩を落とした。「……改めて考えてくれ」と言い残して去った。あの完璧な社交の笑みが、最後まで戻らなかったのが印象的だった。使用人が置いていった贈り物の箱を、ブルーノが黙って片付ける。中身は王都で最も高価な茶葉だった。買収の匂いがする。



 応接室で、ディートリヒに向き合った。


「旦那様」


「何だ」


「なぜ、引き留めてくださらなかったのですか」


 声が震えていた。


「……君の自由だ。白い結婚の契約通り、互いに干渉しない。俺にはお前を縛る権利はない」


 正しい。


 正しいが——その言葉が、一番残酷だった。契約。干渉しない。権利。全部正しい言葉で、全部冷たい。


「その契約の話は、もうやめてください」


 丁寧語が崩れかけている。


「やめてくださいと言っているのです。私は——」


 言葉が詰まる。ここにいたい。あなたに必要とされたい。白い結婚の契約なんかじゃなく、私個人として。


 でも、それを口にする勇気がなかった。


 ディートリヒは黙っていた。いつもなら少しは読めるようになった表情が、壁のように閉ざされている。


 この人は、引き留めたかったのだろうか。引き留めたいのに、契約を盾に自分を抑えたのだろうか。それとも、本当にどうでもいいのだろうか。


 わからない。帳簿なら読めるのに。数字なら理解できるのに。この人の沈黙だけは、どう読んでいいかわからない。


「……すみません。失礼しました」


 頭を下げて部屋を出た。廊下を早足で歩く。泣きはしない。ただ、爪が掌に食い込んでいた。



 夜。部屋で一人、考えていた。


 怒りの正体はわかっている。ディートリヒに怒っているのではない。「引き留めてほしかった自分」に怒っている。白い結婚の契約を自分で了承しておいて、今さら何を求めているのか。あの人は契約通りのことを言った。それが刺さったのは、私が契約の外にあるものを望んでいるからだ。


(矛盾している。私が矛盾している)


 ふと、思い立った。


 執務室に行く。夜の執務室は無人だ。ディートリヒの机の端に、あの羊皮紙がある。三ヶ月前に赤みを帯びていた、白い結婚の契約書。


 広げた。


 「互いに干渉しない」の文字が、真っ赤に変色していた。


 赤い、なんてものではない。燃え上がるような深紅。まるでインクが脈打っているように見える。


 契約羊皮紙は嘘をつかない。この赤は、当事者のどちらか——あるいは両方が——恋愛感情を抱いていることの証だ。


(三ヶ月前、うっすらと赤かった時に、気づくべきだった。経年劣化だと自分に言い聞かせたのは、気づきたくなかったからだ。認めてしまったら、もう数字の世界には戻れない)


 でも、赤い文字は事実だ。帳簿と同じだ。見たくないからといって、数字が消えるわけではない。


 今は——赤い文字が、目の前で燃えている。


(私の感情の、証拠。あの人の感情の、証拠。それとも——)


 羊皮紙を元の場所に戻した。手が震えていた。震えが止まるまで、机の前に立っていた。


 帳簿なら読めるのに。契約書の赤い文字は、帳簿よりもずっとわかりやすいのに。


 わかりやすいからこそ、怖い。見ないふりをするには、もう赤すぎた。その赤は、もう言い訳の余地を残していなかった。


 窓の外で風が木々を揺らしている。秋が深まっていた。辺境伯領の冬は長いと聞く。


 あの人のいる冬と、いない冬。どちらを選ぶかなんて、考えるまでもなかった。


 答えは、とっくに出ていた。

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