第7話 初めて
夫が戦場に出たと聞いた時、帳簿の数字が初めて頭に入らなかった。
国境付近で盗賊の集団が目撃されたという報告が、早朝に届いた。辺境伯領の軍が出動し、ディートリヒ自ら指揮を執ったと、ブルーノが淡々と告げた。
「小規模な盗賊です。旦那様にとっては日常の任務でございますので、ご心配には及びません」
「心配などしておりません」
嘘だった。
執務室に座り、帳簿を広げる。来月の定期市の出店計画。蜂蜜酒の増産スケジュール。交易路の通行量統計。どれも今日中に確認すべき重要な書類だ。いつも通り数字を読めばいい。数字の前に座れば、余計なことは考えなくて済む。いつもそうだった。
父の領地が潰れた日も、婚約を破棄された日も、数字だけは私を裏切らなかった。
なのに、三回同じ行を読んで、四回目でようやく内容を理解した。ペンを握る手に力が入らない。
(……何をしているの、ナディア。盗賊退治なんて朝飯前でしょう。あの人は国境防衛の名将なのだから)
言い聞かせなければならない時点で、もう普通ではない。
ふと、机の上の予算書に目が行く。来期の予算案。ディートリヒと二人で数字を詰めたもの。彼の硬い筆跡と、私の細い筆跡が一枚の紙の上で並んでいる。
(あの人がいなくなったら、この紙の半分は意味を失う)
仕事の話にすり替えようとしている自分に気づいて、嫌になった。心配しているのは予算書のことじゃない。わかっている。わかっているのに、この感情に名前をつけるのが怖い。
マルグリットがお茶を持ってきてくれた。
「……旦那様のこと、ご心配ですか?」
「心配などしていません。帳簿の計算が合わないだけです」
マルグリットは何も言わなかったが、その目が「嘘でしょう」と語っていた。十八歳の侍女に見透かされている。
お茶を一口飲んだ。ぬるい。いつもなら「温度が下がっている」と気づくのに、今日は味もわからない。
窓辺の花瓶に目が行く。今朝も花が飾ってある。ディートリヒは出陣前に、花を飾ってから出ていったのだろうか。
(……戦場に行く朝に、花を?)
その想像が、妙にきつかった。
今まで、帳簿の数字が読めなくなったことは一度もなかった。父の領地が潰れた日も、婚約を破棄された日も、数字だけは私を裏切らなかった。なのに今日は、あの人が戦場に出ただけで、数字が霞む。
◇
午後遅く、城門の方から馬蹄の音が聞こえた。
執務室の窓から身を乗り出す。軍旗。帰還だ。先頭に——ディートリヒの姿。
馬から降りる。立っている。歩いている。
(……よかった)
安堵が全身を走り抜けた。膝から力が抜け、窓枠に手をついて体を支えた。こんな反応をしたのは、父の領地が競売にかけられた日以来だ。あの時は恐怖で膝が折れた。今日は——安堵で。
同じ体の反応なのに、理由がまるで違う。
だが——右腕の袖口が赤い。血だ。
気づいた瞬間、走っていた。帳簿を机に投げ出し、廊下を走り、階段を駆け降り、中庭に飛び出す。走ったのは、この城に来て初めてだ。
「旦那様!」
声が裏返った。恥ずかしい。でも構っている余裕がない。
ディートリヒが振り返る。怪訝そうな顔——走ってきた妻を見て、何が起きたのかわからないという顔。
「大したことはない。浅い切り傷だ」
「見せてください」
「医務官が——」
「見せてください」
二度言った。自分でも驚くほど強い声が出た。ディートリヒが一瞬目を見開き、黙って腕を差し出した。
袖をまくる。浅い切り傷だが、手当てがされていない。傷口に泥がついている。
「このままでは化膿します。執務室に来てください」
執務室に移動する間、ディートリヒは何も言わなかった。ただ、私の早足に黙って合わせて歩いてくれた。
湯と清潔な布を用意させた。マルグリットが薬草の軟膏を持ってくる。養蜂農家の近くに生えていた薬草から作ったもの。
ディートリヒが椅子に座り、私が隣に膝をつく。窓辺の花瓶には、今朝も花が飾ってあった。
傷口を丁寧に洗う。軟膏を塗る。包帯を巻く。指が傷の周りの肌に触れるたびに、ディートリヒの腕がわずかに硬くなるのがわかった。
手が震えていた。ずっと、震えていた。
(……なぜ。傷は浅い。大したことはないと本人が言った。なのに、なぜ指が言うことを聞かない)
包帯を巻きながら、至近距離でこの人の顔を見る。汗と土埃で汚れた顔。鋭い目。でもその目の奥に、ほんの微かにこちらを見ている温度があった。
「……ありがとう」
低い声。普段より少しだけ柔らかい。
「三日は安静にしてください。腕を振り回すなど論外です」
「執務がある」
「予算書は私が管理できます。軍事報告はブルーノに中継させます。だから——安静にしてください」
命令口調だった。辺境伯に命令する辺境伯夫人。白い結婚の契約も、身分の差も、全部関係ない声だった。
ディートリヒが、黙って頷いた。
(……従ってくれた)
嬉しいのに苦しい。温かいのに怖い。名前のつけられない感情が、喉の奥でつかえている。
◇
夜、部屋で一人、ベッドの縁に座った。手がまだ微かに震えている。
この半年間、この領地で仕事をして、帳簿を読んで、予算を組んで、交渉をして。それが楽しかった。夫と一緒に働くのが、充実していた。
(仕事が楽しいだけだと思っていた。この領地が好きなだけだと思っていた。数字の世界にいれば安全だと思っていた)
——嘘だ。
あの人が戦場に出たと聞いて、帳簿が読めなくなった。帰ってきた時、走った。傷を手当てする時、手が震えた。
数字は嘘をつかない。帳簿は裏切らない。
でも、心臓の音は別だった。 帳簿には載らない数字。それが、こんなにも痛い。
(……これは、そういうことなのだ)
認めるのが怖い。認めたら、白い結婚という均衡が壊れる。仕事仲間でいられなくなるかもしれない。今の関係が——帳簿を挟んで数字を語り合えるこの距離が——失われるかもしれない。
失うのが怖い。父の領地が潰れた時、すべてを失う恐怖を知った。もう一度あれを味わうくらいなら、気づかないふりをしていた方がましだ。
でも——手は、まだ震えていた。
翌朝、ディートリヒ宛に手紙が届いた。ヘッセン伯爵家の封蝋が押された手紙。
「お話ししたいことがある」
ルートヴィヒの筆跡を見た瞬間、私の指先が冷たくなった。




