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白い結婚だったはずの夫が、なぜか私の書いた予算書にときめいているのですが  作者: 九葉(くずは)


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第5話 社交パーティの招待状

 社交パーティの招待状が届いた時、私が心配したのはドレスではなく、留守中の帳簿の管理だった。


「マルグリット。三日間の出納記録は、この様式に従って——」


「奥様、ドレスの仕立てがまだなのですが……」


(……ああ、そちらが先でしたか)


 辺境伯夫人として初めての社交パーティ。王都の貴族が一堂に会する秋の夜会。没落男爵家の娘としてではなく、ヴァイセンブルク辺境伯夫人として出席する。


 正直に言えば、気が重い。帳簿と向き合っている方がよほど気楽だ。数字は裏表がないのに、社交界の笑顔には何重もの意味が隠されている。


 何より——ルートヴィヒ様がいる可能性がある。


 半年ぶりの再会。あの人の顔を見て、何を感じるだろう。怒り? 悔しさ? それとも、もう何も感じないだろうか。帳簿の数字を見るように、冷静でいられるだろうか。


 正直に言えば、自信がなかった。


 ブルーノが仕立て屋を手配してくれ、深い青のドレスが間に合った。飾り気のない、しかし仕立ての良い一着。


 王都へ向かう馬車の中、ディートリヒは向かいの席で腕を組んだまま無言だった。


「旦那様は、社交パーティはお好きですか?」


「嫌いだ」


 即答。清々しいほどの断言だった。


「では、なぜいらっしゃるのですか」


「辺境伯には出席義務がある」


(それは理由であって、答えではないのだけれど)



 パーティ会場は、侯爵家の大広間。シャンデリアの光が天井に反射し、百人を超える貴族が談笑している。ワインの香り、香水の香り、蝋燭の蝋の匂いが層になって鼻を刺す。


 入場した瞬間、視線が突き刺さった。横目で窺う貴婦人。扇の陰で囁く令嬢たち。


(……商人との交渉と同じだ。誰が味方で、誰が敵で、誰が中立か。数字を読むように、この場を読みなさい)


 背筋を伸ばす。深い青のドレスは派手ではないが、仕立ての良さが布地の落ち感に出ている。没落男爵家の娘に宝石はないが、姿勢だけは帳簿の前でも社交の場でも変えない。それが私の武器だ。


 三十分。何人かの貴婦人に挨拶をし、蜂蜜酒の評判を耳にした。


「辺境伯領のお酒、先日の晩餐会で出たのだけれど、香りが素晴らしくて」


 小さな手応え。交渉で掴んだ糸口と似た感触が指先にある。


 そして——


「久しぶりだね、ナディア」


 振り返ると、ルートヴィヒ・フォン・ヘッセンが立っていた。


 柔らかな金髪。人好きのする笑顔。婚約していた頃は、この笑顔を見るたびに安心していた。この人の隣にいれば大丈夫だと。


 今は——何も感じない。凪いだ水面のように、心が静かだった。半年前ならこうはいかなかっただろう。でも今の私には、帳簿と蜂蜜酒と、定期市と——辺境伯領がある。 私が作った場所が。帳簿に刻んだ数字の一つ一つが、あの土地を支えている。


「お久しぶりです、ルートヴィヒ様」


「辺境伯夫人になったそうだね。大変だろう、あんな僻地は。食事はまともに出るのかい」


 僻地。その一言で、奥歯を噛んだ。定期市で焼き栗を買う子供の笑顔が浮かんだ。蜂蜜酒を初めて売れたおじいさんの潤んだ目が浮かんだ。


「おかげさまで。食事も美味しいですし、蜂蜜酒の開発も順調で。あ、ご存知でしたか? 辺境伯領の蜂蜜酒、王都でも扱っていただけるようになりまして」


 笑顔で返した。わざとだ。蜂蜜酒の話題を出せば、周囲の貴婦人が反応する。ルートヴィヒ様の「僻地」発言を、蜂蜜酒の話で上書きする。交渉と同じだ。相手の土俵で戦わず、自分の土俵に引き込む。


 ルートヴィヒ様は余裕の表情で頷いた。でもその余裕が、ほんの少しだけ薄いのを私は見ていた。


 その横で、貴婦人たちの声。


「辺境伯領の蜂蜜酒、召し上がった?」


「関税も下がったそうよ。うちの取引先が検討しているって」


 ルートヴィヒ様の目が、一瞬だけそちらに向いた。


「辺境伯領ごときが交易で話題になるとはね。まあ、一時的なものだろうけど」


 鼻で笑う。その笑い方は昔から変わっていない。——でも、今の私はその余裕の裏側が読める。


 そこに、隣の商人風の男が口を挟んだ。


「いや、ヘッセン伯爵家の方。あちらの辺境伯領、最近かなり伸びてますよ。関税体系がよく設計されていて、商人の間では注目の的です」


 空気が変わった。


 ルートヴィヒ様の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。ほんの一瞬。でも私は見ていた。


(……お気づきですか、ルートヴィヒ様。あの「よく設計された関税体系」が、どこの誰の設計かということに)


 口には出さない。出す必要がない。



 パーティの途中から、ディートリヒが妙に近くにいた。


 私が貴族の男性と挨拶を交わすたびに、いつの間にか隣に立っている。話題を変える。視線で牽制する。


「旦那様。社交がお嫌いなのに、随分あちこちにいらっしゃいますね」


「……嫌いだ」


 嫌いだと言いながら、離れない。理解できない。


 でも、不快ではなかった。むしろ——この人が隣にいると、社交の場の緊張がほんの少しだけ緩む。 辺境伯領の執務室にいる時と同じ感覚。あの人が近くにいると、呼吸が楽になる。帳簿の前にいる時のように、背筋が自然と伸びる。不思議な安心感だった。


 帰りの馬車で、窓の外に流れる夜の街並みを眺める。石畳が月光に濡れて光っていた。


「……元婚約者に会いましたが、何も感じませんでした」


 なぜそんなことを口にしたのか、自分でもわからない。


 ディートリヒは無言だった。馬車の揺れだけが二人の間を満たしている。


(あの人の肩が、少し下がった気がする。緊張が解けたように。……気のせいかしら)


 窓の外で、月が雲の合間から顔を出していた。辺境伯領に帰ったら、まず蜂蜜酒の増産計画を見直そう。王都での需要は予想より早く伸びている。


 嬉しい誤算だった。


 ——でも、パーティの最後に目に入った光景が、まだ引っかかっている。ルートヴィヒ様がグラスを握ったまま、誰とも話さず窓の外を見ていた。あの完璧な社交の達人が、一人で。


 何かが、揺らぎ始めている。


 あの人が握っていたグラスの中身は、もう空だった。


 数字は嘘をつかない。空のグラスは、満杯のグラスより多くを語る。


重複


 重複

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