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白い結婚だったはずの夫が、なぜか私の書いた予算書にときめいているのですが  作者: 九葉(くずは)


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第4話 数字

 辺境伯領に嫁いで三ヶ月。夫の顔より、この領地の帳簿の方がよほど見慣れてしまった。


 それが良いことなのか悪いことなのかはさておき、帳簿の数字は確実に良くなっている。関税の引き下げ後、辺境伯領を通過する商人の数は一ヶ月で一・五倍に増えた。蜂蜜酒の試験販売も好調で、王都の料理店から追加注文が入り始めている。


 小さな芽だ。でも、芽が出るのと出ないのとでは天と地ほど違う。


 定期市の開催をディートリヒに提案したのは、二週間前のことだった。


「月に一度、城下の広場に市を立てましょう。周辺の村から農産物を集め、通りがかりの商人に販売の場を提供します」


「費用は」


「初回の設営費として二十リーゼ。二回目以降は出店料で賄えます」


 ディートリヒは三秒考えて、「やれ」と言った。


 この人の意思決定の速さには驚かなくなった。数字の裏付けがあれば、迷わない。軍人にとって遅い決断は、間違った決断より性質が悪いのだろう。


 問題は、準備が思った以上に大変だったことだ。広場の整備、出店者の募集、品質管理の基準、衛生規則、看板の設置、周辺五つの村への告知。


「奥様、看板の文字が読めないという方がいらっしゃいまして」


「絵で描きましょう。矢印と商品の絵柄で。識字率を考えると、絵の方が確実です」


 マルグリットが走り回り、ブルーノが段取りを仕切り、ディートリヒが兵を出してくれた。


「……旦那様。兵士に荷運びをさせるのは、少々贅沢では」


「暇な兵がいる。体を動かす訓練になる」


(この人、何でも軍事に結びつけるのね)


 だが正直に言えば、助かった。兵士たちは力仕事が速く正確だ。テントの設営など、ものの半日で終わった。隊長格の兵が「辺境伯夫人殿、次はどこに張りますか」と敬礼してくるので、思わず笑ってしまった。


「兵士さんたち、楽しそうですね」


 マルグリットが不思議そうに言った。確かに、兵士たちは生き生きとしている。戦場ではない場所で体を動かすのが新鮮なのだろうか。


「軍人は命令系統がはっきりしていると動きやすいのよ。だから、指示は具体的に出すの」


 これは父の教えだ。人を動かすには曖昧な言葉ではなく、数字と場所と期限を示せ、と。



 定期市の前日。執務室で最終確認をしていた時、ディートリヒの机の端に目が留まった。


 書類の下から覗く羊皮紙。見覚えのある書体。重厚な封蝋の跡。


(——白い結婚の契約書だ)


 婚姻の日に署名した契約羊皮紙。あの日、ディートリヒの筆跡が予想外にきれいだったのを覚えている。軍人なのに、と思った。


 婚姻の日に二人で署名した契約羊皮紙。この世界の契約羊皮紙には魔法が込められていて、契約内容に違反すると文字が赤く変色する。重大な違反なら、羊皮紙自体が燃え尽きるのだという。


 何気なく目を向けて——気づいた。


 「互いに干渉しない」と記された条項の文字が、うっすらと赤みを帯びている。黒だったはずのインクに、淡い赤が滲んでいた。


(……経年劣化かしら。湿度の問題かもしれない)


 深く考えず、作業に戻った。明日の段取りの方が百倍大事だ。契約羊皮紙の変色理由を調べている暇があったら、出店者の配置を一人でも多く最適化した方がいい。


 ——でも、ほんの一瞬だけ。赤みを帯びた文字が、まるで脈打っているように見えたのは。


 気のせいだと、思うことにした。



 翌朝。定期市は想像以上の賑わいだった。


 周辺の村から農民が野菜を持ち寄り、養蜂農家が蜂蜜を並べ、行商人が布地や小物を広げた。子供たちが広場を走り回り、焼き栗の甘い匂いがする。


 活気というのは、こういうものだ。人が集まり、声が交わり、物と金が動く。帳簿の上の数字が、現実の景色になる瞬間。


「奥様! 蜂蜜酒がもう残り三樽です!」


「来月の市に間に合うよう、明日から仕込みを始めます」


 走り回る。出店料を集計し、売上の概算を出し、改善点をメモする。蜂蜜酒の売り場には行列ができていて、マルグリットが必死に対応している。


「奥様、試飲をお求めの方が!」


「試飲は一人一杯まで。それ以上は購入をお勧めして」


 声を張る。指示を出す。これが私の戦場だ。帳簿と数字と、人の笑顔がある戦場。養蜂農家のおじいさんが「こんなに売れたのは初めてだ」と目を潤ませていた。あの日、蜂蜜の買い取り交渉で眉をひそめていた人だ。


(……数字で約束したことは、守る。それが信用になる)


 夕暮れ、片付けが始まる頃。ディートリヒが私の隣に立って、一言。


「……よくやった」


(褒められた……?)


 固まった。頭の中が白紙の帳簿みたいになった。出てきたのは——


「あ、ありがとうございます。出店料だけで設営費の八割を回収できましたので、次の定期市からは黒字が見込めます。特に蜂蜜酒が——」


 数字で返してしまった。褒められた感想ではなく、収支報告を滔々と。


(なぜ私は、「嬉しいです」の一言が言えないのだろう)


 ディートリヒは何も言わなかった。ただ小さく鼻を鳴らした。それが笑いだったのかは、確信が持てない。でも、笑いだったと思いたかった。この人が笑う姿を、私はまだ見たことがない。


 笑ったら、石像のような顔がどう変わるのだろう。——何を考えているんだ私は。


 でも、笑いだったと思いたかった。この人が笑う姿を、私はまだ見たことがない。



 夜、ブルーノがお茶を持ってきてくれた。


「それと——奥様がいらしてから、旦那様の執務室に花が絶えないのでございますが」


 唐突な話題の転換に、思考が一瞬止まった。数字の話をしていたのに、突然花の話。ブルーノの転換はいつも唐突で、しかし的確に何かを突いてくる。


 執務室の花。毎朝、窓辺に新しい花が飾られている。もう三ヶ月。最初は白い野花一輪だったのが、最近は小さな花束になっている。


「あれは旦那様のご趣味でしょう?」


 ブルーノが目を細めた。何かを知っている顔。


 あの目は、帳簿の行間を読む私の目に少しだけ似ていた。四十年分の経験が、あの微笑みに詰まっている。


「……左様でございますね」


 それだけ言って、静かに下がった。


 その微笑みの意味を、私は考えなかった。頭の中は、来月の定期市と蜂蜜酒の増産計画で一杯だ。


 ——そして執務室の片隅では、契約羊皮紙の文字が、昨日より少しだけ赤くなっていた。


 数字は嘘をつかない。契約羊皮紙も。

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