第3話 蜂蜜酒の試作品
蜂蜜酒の試作品を三十七回作り直した。三十八回目で、ようやく私の舌が許した。
琥珀色の液体をグラスに注ぐ。光に透かすと、蜂蜜特有の温かみのある金色が揺れる。口に含めば、花の香りが鼻に抜けて、微かなアルコールの温もりが舌の上を転がる。
「……これなら、王都の食卓に出せます」
ここに辿り着くまでが、平坦ではなかった。
辺境伯領に嫁いで二ヶ月。関税の引き下げは、ディートリヒが宣言した翌日に実行された。軍人というのは決定から行動までが早い。「来週から」でも「来月から」でもなく「明日から」。
だが蜂蜜酒は——まず、原料が手に入らなかった。
養蜂農家を訪ねた日のことを、今でも覚えている。三軒の農家を回り、三軒とも同じ反応だった。
「辺境伯夫人様がお酒を? はあ……失礼ですが、うちの蜂蜜は売り物にしか使いませんで」
眉をひそめる老農夫。その隣で奥方が腕を組んでいる。不信感を隠す気もない目だった。没落男爵家の娘が嫁いできたという噂は、村にも届いている。
(信用がない。当然だ。実績がないのだから)
ルートヴィヒ様のもとにいた頃なら、「伯爵家の命令です」と言えば通った。でも今の私には伯爵家の後ろ盾はない。辺境伯夫人という肩書きはあるが、白い結婚の形だけの夫人に、村人が従う理由はない。
だから、数字で話した。
「蜂蜜一壺の買い取り価格を現在の二割増しに設定します。その代わり、品質基準を設けさせてください。花の種類と採蜜時期を統一すれば、蜂蜜酒に適した蜜が安定して手に入ります。二割増しの費用は、蜂蜜酒の利益から——」
「ちょ、ちょっと待ってくだせえ。その二割増しってのは本当ですかい」
帳簿を広げ、計算の根拠を見せた。老農夫の目が、数字を追い始めた瞬間に変わった。
数字は裏表がない。嘘も虚勢も通じない。だからこそ、人を動かせる。
一軒目の老農夫は、翌日になって「やっぱりやる」と言いに来た。帳簿を一晩眺めたらしい。二軒目は奥方が先に折れた。「この嫁さん、数字は嘘つかんわ」と旦那を説き伏せたそうだ。三軒目は最初から乗り気だった若い農夫で、「蜂蜜酒って本当にできるんですか」と目を丸くしていた。
全員が揃った時、マルグリットが泣きそうな顔で笑っていた。
◇
醸造が始まってからの三十七回の失敗は、ある意味で楽しかった。水と蜂蜜の比率、発酵の温度管理、熟成期間。一つ変数を変えるたびに味が変わる。小さな誤差が、最終結果を大きく左右する。
三十八回目の成功を確認した週に、王都から商人がやってきた。
商業ギルドに所属するフランツという名の男だった。白髪交じりの髪に鋭い目をした壮年の商人。辺境伯領の関税引き下げを聞きつけて、交易路の視察に来たのだという。
「辺境伯夫人自ら交渉なさるとは」
「ええ。私が一番、この領地の数字を知っておりますので」
応接室で向かい合う。フランツは商人特有の値踏みする目で私を見ていたが、交易条件の提示を始めた途端、その目が変わった。
「関税率は従来の三分の二。ただし年間の最低取引量を定め、それを超えた分については更に一割引き下げます。安定した取引をしてくださる商人には、相応の利を」
「……なるほど。それは面白い」
「加えて、辺境伯の軍が交易路の安全を保障します。盗賊の被害を気にされる必要はありません」
蜂蜜酒の試飲を出すと、フランツが目を見張った。
「これは……王都の高級酒に引けを取らない」
蜂蜜の品質を褒められると、養蜂農家のおじいさんたちの顔が浮かんだ。あの人たちが丁寧に採った蜜が、この一杯になっている。
「産地はこの領地の?」
「ええ。辺境伯領の森の花から採れた蜂蜜を使っております」
交渉は二時間に及んだ。フランツは細かい条件を一つ一つ確認し、私はその都度、数字の根拠を示した。関税率の計算式。蜂蜜酒の原価構造。交易路の安全保障にかかる軍事コスト。どの質問にも、私は帳簿を開いて答えた。
最終的にフランツが頷いた時、応接室の蝋燭が二本目に替わっていた。帰り際、フランツが握手を求めてきた。
「辺境伯夫人。失礼ですが、どちらで商売を学ばれた?」
「……独学です。帳簿を読むのが趣味でして」
「趣味、ですか」
(褒めないでください。困りますから)
◇
翌日。ディートリヒが交易路の視察に同行すると言い出した。
「……旦那様自ら、ですか?」
「国境付近だ。護衛がいる」
辺境伯が自ら護衛につく必要があるのだろうか。兵を数人つければ済む話だ。
(暇なのかしら)
ある村で馬車を止めた時、私の目に映ったのは干上がりかけた水路だった。
「この水路……どこに繋がっていますか?」
村長に尋ねると、山間の小川から引いた灌漑用の水路だという。だが何年も前から手入れされておらず、半分以上が土砂で埋まっていた。畑は乾き、収穫は年々減っている。
「昔はこの水路のおかげで、村全体の畑が潤っていたんですが……」
村長が力なく笑う。水路の脇に座り込み、土砂の堆積具合を確認した。スカートの裾が汚れたが、気にしている場合ではない。
「改修すれば畑の収穫量が上がります。費用は——三十リーゼもあれば十分です。来期の予算に組み込みましょう」
村長が目を丸くしている。マルグリットが息を呑んだ。彼女はこの村の出身だ。
帰りの馬車で、風が冷たくなった。
辺境の秋は早い。窓から入る風に腕をさすっていると、不意に、肩に重みが乗った。ディートリヒのマントだった。
「風が出てきた」
それだけ言って、窓の外に視線を戻す。マントは厚手で、微かに革と鉄の匂いがした。軍人の匂い。帳簿からは絶対にしない匂い。
(……マントを返す気になれない。実務的な配慮を実務的に受け取っただけよ。それ以上の意味はない。ないったら)
馬車が城に着く頃、商人のフランツが残していった言葉を思い出した。
「ヘッセン伯爵領の交易路、最近少し遅れが出ているそうですよ」
ルートヴィヒ様の領地。私が書いた計画を基に運営されているはずの交易路。
(あの計画は、定期的に更新しないと効率が落ちる。私がいなくなった後、誰が?)
答えは、おそらく「誰も」だ。
肩のマントが、不思議と重く感じなかった。 温かさだけが、残った。窓の外で、夕日が森を赤く染めていた。窓の外で、夕日が森を赤く染めていた。




