第2話 趣味
趣味を他人に見られるのは、下着を見られるより恥ずかしい。
——少なくとも、私にとっては。
朝日が差し込む部屋で目を覚まし、昨夜のことを思い出した瞬間、血の気が引いた。
(予算案。書庫の机の上に、置きっぱなし)
飛び起きて身支度もそこそこに書庫へ向かう。廊下を早足で進み、扉を開けて——
机の上は、空だった。
紙がない。昨夜、七時間かけて書いた予算案が、ない。
「奥様」
背後からブルーノの声がした。振り返ると、初老の執事が丁寧に頭を下げている。
「おはようございます。旦那様が、今朝早くに書庫にいらしたそうで」
「……旦那様が?」
「はい。机の上にあったお書き物を持っていかれました」
目の前が暗くなった。比喩ではなく、本当に一瞬視界が揺れた。
(読まれた。あの予算案を。趣味の走り書きを。しかも、旦那様に)
没落男爵家の娘が、嫁いで初日に、勝手に帳簿を漁り、頼まれてもいない予算案を書いた。これは——控えめに言っても、越権行為だ。
「奥様、お顔が真っ白でございますが」
「……大丈夫です。大丈夫ですとも」
大丈夫なわけがなかった。
◇
午後になっても呼び出しはなかった。
叱責がないのは余計に怖い。嵐の前の静けさという言葉が、こんなに実感を伴うとは思わなかった。
与えられた自室で、窓の外の森を眺める。辺境伯領の森は深く、遠くに青い山脈が霞んでいる。手入れされていない庭越しに、養蜂に適した野花が木漏れ日の下で揺れていた。白い花。黄色い花。蜂が低く唸りながら飛び回っている。あの花の蜜で酒を造れば——
(いえ、もう余計なことは考えない。考えない。考えないったら)
窓枠に頬杖をつく。城の中は静かだ。使用人の数は多くない。広い城の割に人が少ないから、廊下を歩くと自分の足音だけが返ってくる。
没落男爵家の屋敷に似ている。人がいなくなった建物は、どこも同じ音がする。壁が呼吸するような、かすかな軋み。風が窓枠を鳴らす微かな音。
もし叱責されたら、どう返そう。「申し訳ございません」と頭を下げるか。「二度としません」と約束するか。——いいえ。嘘は嫌いだ。帳簿を見れば、また書いてしまうに決まっている。
夕暮れ時、扉が叩かれた。
「奥様。旦那様が、執務室にお呼びです」
マルグリットという名の若い侍女だった。この城で雇われている村の娘だという。
来た。
覚悟を決めて、執務室の扉を叩く。
「入れ」
短い声。扉を開けると、ディートリヒは執務机の向こうに座っていた。窓から差し込む夕日が、黒い髪に赤みを添えている。
机の上に、私の予算案が広げられている。紙の端に折り目がついている。何度も読み返した跡だ。余白にはペンで数字が書き足されていた。あの人が計算し直した、のだろうか。
(……怒っている? いや、顔が読めない。この人の表情は、帳簿より読みにくい)
「ナディア」
名前を呼ばれた。昨日は名乗り合っただけだったのに、今日はもう名前で呼ばれている。
「この税制改革案を説明してほしい」
叱責ではなかった。
その目を見て、わかった。怒りではない。これは——興味だ。純粋な、混じりけのない関心。
「……私の勝手な走り書きで、恐れ入りますが」
「構わない。関税を三分の二に下げる根拠を聞きたい」
そこから先は、覚えているようで覚えていない。
私が説明を始めると、ディートリヒは一言も遮らなかった。ペンを取り、メモを取りながら聞いている。質問は的確で、しかも全て数字に関することだった。
「通行量が増えた場合の税収の損益分岐点は」
「現行の通行量の一・四倍を超えれば黒字転換します。周辺の交易路の通行実績から見て、関税を下げれば二倍は見込めます」
「蜂蜜酒の生産コストは」
「養蜂農家への委託費と醸造設備の初期投資を合わせて、初年度は赤字です。ですが二年目から回収に入り、三年目には——」
「利益率は」
「控えめに見積もって、二割五分です」
ディートリヒの目が、わずかに見開かれた。
この人、数字がわかるのだ。軍事予算の配分しかできないと思っていたが、数字の構造を読む力はある。ただ、経営という分野に触れたことがなかっただけだ。
説明が終わった時、執務室の蝋燭が半分ほど短くなっていた。どれだけの時間が経ったのかわからない。話し始めると止まらなくなるのは、私の悪い癖だ。
ディートリヒは少しの沈黙の後、言った。
「全面的に協力する。必要なものがあれば言ってくれ」
(……え?)
予想していなかった。叱責か、良くて黙殺だと思っていた。まさか、協力。
「予算は厳しいが、関税の引き下げは俺の裁量でできる。養蜂農家への支援も、規模が小さければ問題ない」
具体的だった。「考えておく」でも「検討する」でもなく、すぐに実行可能な範囲を示してくれた。
「あ、ありがとう、ございます」
舌が絡んだ。褒められた——いや、褒められたわけではない。協力すると言われただけだ。なのに、喉の奥がきゅっと締まる。
ルートヴィヒ様は、私の計画書を読んでも「ああ、使えるな」としか言わなかった。中身について質問されたことは、一度もない。
(やめなさい。比べるものではないでしょう。数字が優秀なだけです。私じゃなくて、数字が)
頭を下げて執務室を辞する。廊下に出て、深く息を吐いた。
手が、少し震えていた。嬉しさなのか、緊張の名残なのか、自分でもわからない。
ただ一つ、確かなことがある。あの人は、数字の向こうにある「意図」を読もうとしてくれた。計画書を道具として使うのではなく、設計者の思考を理解しようとしてくれた。
◇
翌朝、ブルーノに呼ばれて執務室に向かうと、机の上に新しい帳簿が積まれていた。過去十年分の交易記録と、軍事支出の詳細。付箋が挟まれていて、ディートリヒの硬い筆跡で「参考資料」と書かれている。
そして——窓辺に、小さな花瓶が置かれていた。
野花が一輪、挿してある。白い小さな花。昨日、窓から見えた森に咲いていたのと同じ花だ。
「……あら」
「旦那様が今朝、お持ちになりました」
ブルーノが何でもないことのように言う。
(趣味が変わったのかしら。軍人に花の趣味。……まあ、人にはそれぞれの嗜好があるものよね)
首を傾げながら、椅子に座る。帳簿を開く。十年分の数字が目に飛び込んでくる。交易量の推移、季節ごとの変動、主要取引先の一覧。
数字の海に潜る。
花のことは、三秒で忘れた。




