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白い結婚だったはずの夫が、なぜか私の書いた予算書にときめいているのですが  作者: 九葉(くずは)


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第2話 趣味

趣味を他人に見られるのは、下着を見られるより恥ずかしい。


 ——少なくとも、私にとっては。


 朝日が差し込む部屋で目を覚まし、昨夜のことを思い出した瞬間、血の気が引いた。


(予算案。書庫の机の上に、置きっぱなし)


 飛び起きて身支度もそこそこに書庫へ向かう。廊下を早足で進み、扉を開けて——


 机の上は、空だった。


 紙がない。昨夜、七時間かけて書いた予算案が、ない。


「奥様」


 背後からブルーノの声がした。振り返ると、初老の執事が丁寧に頭を下げている。


「おはようございます。旦那様が、今朝早くに書庫にいらしたそうで」


「……旦那様が?」


「はい。机の上にあったお書き物を持っていかれました」


 目の前が暗くなった。比喩ではなく、本当に一瞬視界が揺れた。


(読まれた。あの予算案を。趣味の走り書きを。しかも、旦那様に)


 没落男爵家の娘が、嫁いで初日に、勝手に帳簿を漁り、頼まれてもいない予算案を書いた。これは——控えめに言っても、越権行為だ。


「奥様、お顔が真っ白でございますが」


「……大丈夫です。大丈夫ですとも」


 大丈夫なわけがなかった。



 午後になっても呼び出しはなかった。


 叱責がないのは余計に怖い。嵐の前の静けさという言葉が、こんなに実感を伴うとは思わなかった。


 与えられた自室で、窓の外の森を眺める。辺境伯領の森は深く、遠くに青い山脈が霞んでいる。手入れされていない庭越しに、養蜂に適した野花が木漏れ日の下で揺れていた。白い花。黄色い花。蜂が低く唸りながら飛び回っている。あの花の蜜で酒を造れば——


(いえ、もう余計なことは考えない。考えない。考えないったら)


 窓枠に頬杖をつく。城の中は静かだ。使用人の数は多くない。広い城の割に人が少ないから、廊下を歩くと自分の足音だけが返ってくる。


 没落男爵家の屋敷に似ている。人がいなくなった建物は、どこも同じ音がする。壁が呼吸するような、かすかな軋み。風が窓枠を鳴らす微かな音。


 もし叱責されたら、どう返そう。「申し訳ございません」と頭を下げるか。「二度としません」と約束するか。——いいえ。嘘は嫌いだ。帳簿を見れば、また書いてしまうに決まっている。


 夕暮れ時、扉が叩かれた。


「奥様。旦那様が、執務室にお呼びです」


 マルグリットという名の若い侍女だった。この城で雇われている村の娘だという。


 来た。


 覚悟を決めて、執務室の扉を叩く。


「入れ」


 短い声。扉を開けると、ディートリヒは執務机の向こうに座っていた。窓から差し込む夕日が、黒い髪に赤みを添えている。


 机の上に、私の予算案が広げられている。紙の端に折り目がついている。何度も読み返した跡だ。余白にはペンで数字が書き足されていた。あの人が計算し直した、のだろうか。


(……怒っている? いや、顔が読めない。この人の表情は、帳簿より読みにくい)


「ナディア」


 名前を呼ばれた。昨日は名乗り合っただけだったのに、今日はもう名前で呼ばれている。


「この税制改革案を説明してほしい」


 叱責ではなかった。


 その目を見て、わかった。怒りではない。これは——興味だ。純粋な、混じりけのない関心。


「……私の勝手な走り書きで、恐れ入りますが」


「構わない。関税を三分の二に下げる根拠を聞きたい」


 そこから先は、覚えているようで覚えていない。


 私が説明を始めると、ディートリヒは一言も遮らなかった。ペンを取り、メモを取りながら聞いている。質問は的確で、しかも全て数字に関することだった。


「通行量が増えた場合の税収の損益分岐点は」


「現行の通行量の一・四倍を超えれば黒字転換します。周辺の交易路の通行実績から見て、関税を下げれば二倍は見込めます」


「蜂蜜酒の生産コストは」


「養蜂農家への委託費と醸造設備の初期投資を合わせて、初年度は赤字です。ですが二年目から回収に入り、三年目には——」


「利益率は」


「控えめに見積もって、二割五分です」


 ディートリヒの目が、わずかに見開かれた。


 この人、数字がわかるのだ。軍事予算の配分しかできないと思っていたが、数字の構造を読む力はある。ただ、経営という分野に触れたことがなかっただけだ。


 説明が終わった時、執務室の蝋燭が半分ほど短くなっていた。どれだけの時間が経ったのかわからない。話し始めると止まらなくなるのは、私の悪い癖だ。


 ディートリヒは少しの沈黙の後、言った。


「全面的に協力する。必要なものがあれば言ってくれ」


(……え?)


 予想していなかった。叱責か、良くて黙殺だと思っていた。まさか、協力。


「予算は厳しいが、関税の引き下げは俺の裁量でできる。養蜂農家への支援も、規模が小さければ問題ない」


 具体的だった。「考えておく」でも「検討する」でもなく、すぐに実行可能な範囲を示してくれた。


「あ、ありがとう、ございます」


 舌が絡んだ。褒められた——いや、褒められたわけではない。協力すると言われただけだ。なのに、喉の奥がきゅっと締まる。


 ルートヴィヒ様は、私の計画書を読んでも「ああ、使えるな」としか言わなかった。中身について質問されたことは、一度もない。


(やめなさい。比べるものではないでしょう。数字が優秀なだけです。私じゃなくて、数字が)


 頭を下げて執務室を辞する。廊下に出て、深く息を吐いた。


 手が、少し震えていた。嬉しさなのか、緊張の名残なのか、自分でもわからない。


 ただ一つ、確かなことがある。あの人は、数字の向こうにある「意図」を読もうとしてくれた。計画書を道具として使うのではなく、設計者の思考を理解しようとしてくれた。



 翌朝、ブルーノに呼ばれて執務室に向かうと、机の上に新しい帳簿が積まれていた。過去十年分の交易記録と、軍事支出の詳細。付箋が挟まれていて、ディートリヒの硬い筆跡で「参考資料」と書かれている。


 そして——窓辺に、小さな花瓶が置かれていた。


 野花が一輪、挿してある。白い小さな花。昨日、窓から見えた森に咲いていたのと同じ花だ。


「……あら」


「旦那様が今朝、お持ちになりました」


 ブルーノが何でもないことのように言う。


(趣味が変わったのかしら。軍人に花の趣味。……まあ、人にはそれぞれの嗜好があるものよね)


 首を傾げながら、椅子に座る。帳簿を開く。十年分の数字が目に飛び込んでくる。交易量の推移、季節ごとの変動、主要取引先の一覧。


 数字の海に潜る。


 花のことは、三秒で忘れた。

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