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白い結婚だったはずの夫が、なぜか私の書いた予算書にときめいているのですが  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第10話 来期予算書

 真っ白になった契約羊皮紙を見て、私は初めて——白紙が、こんなに美しいと思った。


 白い結婚の契約が正式に破棄されたのは、秋の終わりの穏やかな朝だった。二人で羊皮紙に署名し、聖神教の司祭が立ち会い、ブルーノが証人を務めた。


 契約が解除された瞬間、羊皮紙の文字が全て消えた。真っ赤に燃えていた文字も、条項も、二人の署名も。まるで最初から何も書かれていなかったかのように、真っ白に戻った。


 白紙。何でも書ける、何でも始められる白紙。


「新しい契約書をご用意いたしましょうか?」


 ブルーノが尋ねた。長年この城に仕えてきた老執事の目に、微かに光るものがあった。涙ぐんでいるのか笑っているのか。たぶん両方だろう。


「……もう契約は要らない」


 ディートリヒの声が、いつもより柔らかかった。この人の声にこんな温度があることを、半年前の私は知らなかった。


「契約ではなく、夫婦としてやっていく」


 司祭が祝福の言葉を述べる。マルグリットが花束を抱えて飛び込んでくる。城の兵士たちが、武骨な拍手を送ってくれた。


(……大げさよ。契約を破棄しただけなのに)


 でも、マルグリットの花束を受け取った時、指先が震えた。あの子は村の花を朝から摘んできたのだろう。白い花と黄色い花。辺境伯領の野花。蜂蜜酒の原料になる花と同じ花。


 目の奥が熱くなるのは止められなかった。



 午後、来期の予算書を仕上げた。


 交易路の拡充計画。蜂蜜酒の生産拡大。定期市の常設化。水路改修の第二期工事。村の学校への予算配分。


 全ての数字を確認し、二度検算し、最後にペンを取って表紙を書いた。


「ヴァイセンブルク辺境伯領 来期予算書」


 その下に——


「辺境伯ディートリヒ・フォン・ヴァイセンブルク及びナディア・フォン・ヴァイセンブルク」


 二名の名前を並べて書いた。


 乾くのを待って、執務室へ向かう。ディートリヒは軍事報告を読んでいた。窓辺の花瓶には白い花。半年以上、毎朝欠かさず飾られてきた花。


「旦那様。来期の予算書です」


 ディートリヒが受け取り、表紙を見た。二人の名前が並んでいるのを見て、目が一瞬見開かれた。ゆっくり顔を上げ、こちらを見る。


「……これはプロポーズか?」


 心臓が跳ねた。この人がそんな冗談を言えるようになったことに、まず驚いた。


「……そう読めるなら、あなたの読解力も悪くないですね」


 精一杯の虚勢。顔が赤いのは自覚している。


 ディートリヒが笑った。三日前の噛み殺した笑みではなく、もう少しだけ力の抜けた笑み。この人にしては十分すぎる笑顔だった。


「読解力だけは、お前のおかげで上がった」


(——言葉が下手だなんて嘘だ。こういう時だけ、こういうことを言う)


 予算書を受け取ったディートリヒが、中身を確認し始めた。一頁、一頁、丁寧にめくる。数字を追う目が真剣だ。最初のページから最後まで、一行も飛ばさない。


「交易路の拡充計画。南部への延伸は三年計画か」


「初年度は測量と用地確保。二年目に建設。三年目に開通です」


「蜂蜜酒の生産拡大。月産百樽は現実的か?」


「養蜂農家を三軒増やせば可能です。醸造設備の拡張費用は今期の利益から捻出できます」


 プロポーズの直後に収支計画の議論。普通ならありえない。でも、これが私たちだ。数字から始まった関係は、数字と共に続いていく。蜂蜜酒から始まった領地の再建は、これからも数字で測り、数字で語る。



 夕刻、ブルーノ経由でヘッセン伯爵家のその後を聞いた。


 ルートヴィヒは伯爵家の交易部門から外され、王都の外交使節団の随行員として第二の道を歩み始めたという。社交の才能は本物だから、そこでは活躍できるだろう。でも領地経営には二度と口を出せない。


 エルヴィラは計画書の真実を知った後、数日間部屋に閉じこもったという。息子を愛していただけの母親が、現実に直面した痛み。——想像するだけで、少しだけ胸が痛む。


(恨んではいません。怒ってもいません。ただ、もう振り返る必要がないだけ)



 数日後、思いがけない来客があった。


 父、オットー・フォン・エーベルハルトが辺境伯領を訪ねてきた。


 城の中庭で再会した父は、白髪が増えていた。背中も少し丸くなった。でも、目の光は変わっていない。


「立派になったな、ナディア」


「父上こそ、お元気そうで何よりです」


「城を見せてもらった。帳簿も拝見した。……お前の母さんに似たな。数字が好きなところが」


 母の名前が出た途端、涙腺が緩んだ。母は私が幼い頃に亡くなった。帳簿が好きだったと、父からしか聞いていない。


「母上も、数字の横に花の記号を書いていたのですか?」


「ああ。計算が正しいことを確認した印だ。お前がそれを受け継いでいたとは知らなかった」


 私だけの書き方だと思っていたものが、母から受け継いだものだった。知らないうちに、血が教えてくれていたのだ。


「母上なら、この領地の帳簿を見て何と仰ったでしょう」


「あいつなら——」


 父が少し笑った。目尻に皺が寄る。母の話をする時だけ見せる、柔らかい顔。


「『まだ伸びるわ。蜂蜜酒の利益率、もう五分は上げられる』と言ったろうな」


 やっぱり、数字の話になる。この家系の病気だ。でも、悪い病気じゃない。数字が好きで、数字に救われて、数字で人を幸せにできる。そういう血だ。


 父が帰る時、門のところでディートリヒと握手を交わした。無言の握手。でも二人の間で何かが通じたらしい。父が微笑み、ディートリヒが小さく頷いた。



 夜。執務室で、来期の計画を練っている。


 私は蜂蜜酒の新レシピの原価計算。隣の机でディートリヒが軍事報告を読んでいる。同じ部屋で、別々の仕事を、同じ時間に。


 静かだ。でも寂しくはない。ペンがインクに触れる音。紙をめくる音。時折、窓の外で風が木を揺らす音。


 これが、二人の「幸せ」の形だ。派手ではない。劇的でもない。ただ、同じ時間を、同じ場所で、それぞれの仕事をしながら過ごしている。帳簿の数字よりも確かな、静かな幸福。


 ふと顔を上げると、窓辺の花瓶が目に入った。白い花。半年前、初めて飾られた花と同じ種類。


「旦那様」


「何だ」


「……その花は、いつから飾っているのですか」


「予算書を読んだ翌朝からだ」


 わかっていた。わかっていたが、本人の口から聞くのは初めてだった。


 数字は嘘をつかない。帳簿は裏切らない。


 ——でも、この人の花も、嘘ではなかったのだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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