第1話 三秒
結婚初日に、夫の顔をまともに見たのは三秒だった。
馬車の窓から見えたヴァイセンブルク辺境伯領の城は、広かった。広いだけだった。壁の漆喰は剥がれかけ、庭園の薔薇は手入れされず伸び放題。正門の紋章旗は色褪せて、風に揺れるたびに糸がほつれていく。
(……没落男爵家の娘が嫁ぐ先としては、お似合いかもしれない)
自嘲が喉の奥で笑いになる前に、馬車が止まった。
荷物は革鞄が二つだけ。持参金と呼べるものは何もない。あるのは、父に似た算術の頭と、母に似た負けず嫌いの性分だけだ。
城門の衛兵が一礼した。その目に、好奇心と同情が混じっている。
(同情は要りません。ただの契約ですから)
背筋を伸ばし、石畳を踏んだ。
◇
大広間で待っていたのは、背の高い男だった。
ディートリヒ・フォン・ヴァイセンブルク。辺境伯。二十七歳。国境防衛の名将と呼ばれているらしい。
黒い髪。鋭い目。軍人らしい姿勢の良さ。顔立ちは整っているが、それを台無しにするほど表情がない。石像に貴族の服を着せたらこうなるだろう、と思った。
「ディートリヒ・フォン・ヴァイセンブルクだ」
「ナディア・フォン・エーベルハルトです。本日より、お世話になります」
三秒。それが、互いの顔を見た時間の全てだった。
「婚姻の契約通り、互いに干渉しない。それでいいな」
「ええ。承知しております」
白い結婚。マリアージュ・ブラン。夫婦の義務を免除し、互いに干渉しないことを定めた契約婚。没落男爵家の娘と、経営難の辺境伯。政略上の利害が一致しただけの、形だけの婚姻。
旦那様は——いや、この呼び方もしっくり来ないけれど——私の方を見ることなく、大広間を出ていった。軍靴の硬い足音が廊下に遠ざかっていく。
(まあ、こんなものでしょう)
期待していなかった。だから失望もない。
それは本当のことだ。本当のことのはず、だった。
◇
夕食の席には、二人分の食器が並んでいた。
白い皿。銀のフォーク。ワイングラスまで。形だけは整った食卓。向かいの椅子だけが、空だった。
「旦那様は、執務室にいらっしゃいます」
案内してくれた年配の執事——ブルーノという名だった——が、申し訳なさそうに目を伏せる。
「お気になさらず。一人の食事には慣れておりますので」
嘘ではない。没落男爵家の食卓は、いつだって寂しかった。父は帳簿を抱えて書斎に籠り、使用人は一人、また一人と暇を出され、最後には食卓に座るのは私だけになった。
パンを千切る。スープを掬う。野菜の甘みが舌に広がる。味は悪くない。料理人は真面目な人らしい。
(この料理の腕で、食材費がもう少しあれば相当なものが作れるはず)
——また始まった。何を食べても頭が帳簿に走る。これは父譲りの病気だ。
食事を終え、部屋に戻る途中で、私の足は勝手に止まった。
廊下の突き当たり。半開きの扉の向こうに、本棚が見える。
書庫だった。
(……少し、見るだけ)
足を踏み入れた瞬間、埃の匂いの奥に、紙とインクの匂いが混じった。古い紙特有の、乾いた甘さ。この匂いが好きだ。父の書斎もこの匂いがした。
本棚の一角に、革表紙の帳簿が積まれている。五冊、十冊——いや、もっとある。背表紙に年号が振られた領地の会計帳簿。
手に取った。
最初の一頁で、眉が寄った。二頁目で、目が細くなった。三頁目で、ため息が出た。
「……これは」
歳入の記録。歳出の記録。交易路の収支報告。軍事予算の配分表。
見覚えのある構造だった。いや、「見覚えがある」なんて生やさしいものじゃない。
(——父の領地が潰れた時と、同じ構造だ)
赤字の原因は明白だった。交易路の関税設定が高すぎる。商人が迂回して他領を通るから、通行税収入が伸びない。軍事費は増える一方。歳入と歳出の鋏が年々開いている。このまま放置すれば、五年以内に領地経営は破綻する。
父のときは手遅れだった。気づいた時にはもう、どの商人も取引を打ち切った後で、再建する余力が残っていなかった。
でも、この領地はまだ間に合う。
——そう思った瞬間、もう椅子を引いていた。
机の上に帳簿を広げ、白紙の紙を一枚引き寄せる。ペンを取り、インク壺に浸す。
関税を下げて商人を呼び込む。通行量が増えれば関税率が低くても税収は増える。同時に辺境伯領の特産品を開発し、商人にとって「この領地を経由する理由」を作る。
(蜂蜜。この地域は養蜂に適した森林がある。帳簿にも養蜂農家の記録が残っている。蜂蜜酒なら付加価値がつく。王都の食卓に並べられる品質のものが作れれば——)
ペンが走る。数字が並ぶ。収支予測が形になっていく。
交易路の関税を現行の三分の二に下げた場合の試算。蜂蜜酒の生産コストと想定販売価格。初年度の赤字幅と、二年目以降の回収計画。
指先がインクで黒くなる。蝋燭の炎が二度替わった。
気づいた時には、窓の外が白み始めていた。
机の上には、赤字改善の予算案が一本できあがっていた。
(……趣味で書いただけですけれど)
伸びをして、首を回す。背中が痛い。七時間も座りっぱなしだったらしい。指のインク汚れが、蝋燭の灯りに黒く光っている。
ふと、思い出す。
ルートヴィヒ様と婚約していた頃も、こうだった。あの人の領地の商路開拓計画を書いたのは、私だ。関税体系を設計したのも、交易先の選定をしたのも。夜通しペンを走らせて、数字を組み立てて。
あの人はそれを「自分の計画」として父君に提出し、ヘッセン伯爵家の交易は大きく伸びた。
私の名前は、どこにも残っていない。
(まあ、没落男爵家の娘が書いたなんて知られたら、ルートヴィヒ様の立場がないでしょうし)
あの頃はそう思って納得していた。今でも、怒りはない。
悔しさは——少しだけ、ある。
でも、もういい。あれは終わったこと。婚約を破棄されて、こうして別の人のもとに嫁いだ。それだけのことだ。
机の上の予算案を見下ろす。私の癖で、数字の横に小さな花の記号を添えている。計算が正しいことを確認した印。誰に教わったわけでもない、私だけの書き方。
この数字の並びだけは、誰の手柄でもない。私が書いて、私が計算して、私が導き出したもの。
(……置きっぱなしにしておこう。どうせ誰も読まない)
そう思って、書庫を出た。
結婚初日の夜は、帳簿の数字と共に明けた。夫の顔は三秒。帳簿の数字は、七時間。
——白い結婚の初日としては、まあ、上出来だろう。




