第一話 三国協約
残された時間は、七日。
次の満月が、世界の運命を分かつ夜となる。
リューベックの三国交易所、その最も広い会議室は、ロウソクの光で煌々と照らされ、壁には巨大な西方全図が広げられている。
だが、そこに集った者たちの表情は、一様に硬かった。
「……これが、奴らの『復讐の青写真』の全てだ」
ヨナスが持ち帰った羊皮紙の写しが、テーブルの中央に置かれている。
そこに記された悪魔の計画――古代遺跡の精神汚染装置を再起動させ、大陸全土を狂気と内乱の渦に叩き込む――を前に、三国の指導者たちは言葉を失っていた。
「なんという、冒涜的な…」
ザルツのヒルデガルド伯爵が、震える声で呟いた。
彼女の信仰する神は、このような無差別な魂の汚染を、決して許しはしないだろう。
「もはや、これは我ら三国だけの問題ではない。大陸全体の存亡がかかっている」
ニュルンの領主オットーが、固く握りしめた拳でテーブルを叩いた。
彼の瞳には、戦友を失った怒りと、自領を襲われた屈辱、そして何よりも、見えざる敵への純粋な闘志が燃え盛っていた。
「時間は、ない」
リューベック市長ガストンが、乾いた唇を舐めた。
「遺跡の場所は、三国間の緩衝地帯となっている『嘆きの森』の奥深く。我らの軍が兵を集め、最短で到達するにしても、五日はかかる。準備にかけられる時間は、ほとんど残されていない」
三人の視線が、テーブルの中央で交錯する。
そこにはもう、五年前の欲望も、数週間前の猜疑心も存在しなかった。
ただ、自らの民と故郷を、そして自分たちが住まう世界の未来を、共通の脅威から守り抜くという、一点の曇りもない覚悟だけがあった。
「我がニュルンは、連合の剣となろう」
最初に口を開いたのは、オットーだった。
「我が誇る重装歩兵軍団の全てを、この戦いに投入する。遺跡の正面をこじ開けるのは、我らの役目だ」
「ならば、リューベックは金と物資を」
ガストンが続けた。
「兵糧、武具、そして金貨。この街が持つ全ての富を、この戦いのために注ぎ込もう。兵士たちの腹が減っては、戦はできんからな」
「ザルツは、道を示す光となります」
最後に、ヒルデガルドが静かに言った。
「嘆きの森は、古代の民が遺した、迷いの森。我が城の古文書に記された知識と、森を知り尽くした我が山岳猟兵たちが、連合軍の進むべき道を切り開きましょう」
武力、経済、そして知恵。
これまで決して交わることのなかった三つの力が、初めて一つの目的のために結集しようとしていた。
「待った」
その場の空気を破ったのは、ヨナスの冷ややかな声だった。
「気持ちは分かるが、ただ軍隊を送り込むだけじゃ、今までと同じことの繰り返しだ。寄せ集めの軍隊なんざ、統率が取れなきゃただの烏合の衆だぜ。誰が、この連合軍の指揮を執るんだ?」
その言葉に、三人の指導者は押し黙った。
オットーが指揮を執れば、ガストンとヒルデガルドの兵は心から従わないだろう。
逆もまた然りだ。
過去の傷痕は、まだそれほど深く、根強く残っている。
「指揮は、オットー領主にお願いするのが最善でしょう」
その沈黙を破ったのは、リィナだった。
「なっ…!?」
当のオットー自身が、驚きの声を上げる。
リィナは、静かに続けた。
「この中で、最も大規模な軍隊を率いた経験をお持ちなのは、オットー領主、あなたです。兵士たちの命を預かる以上、実績と経験は何よりも優先されるべきです。ですが」
彼女は、オットー、ガストン、ヒルデガルドの三人を、まっすぐな瞳で順に見つめた。
「その指揮が、ニュルンのためだけのものであってはなりません。ガストン市長、ヒルデガルド伯爵、そしてお二人の兵士たちが、心から納得し、命を預けられる指揮でなければ。そのための潤滑油として、僭越ながら私に、三国の軍と政治の連携を円滑にするための連絡調整官を務めさせていただけませんでしょうか?」
それは、問いかけの形を取ってはいたが、有無を言わせぬほどの強い意志を秘めた提案だった。
会議室に、重い沈黙が落ちる。
それは、数秒にも、数分にも感じられた。
三人の指導者たちは、それぞれの心の中で、この若き特使の言葉の真意を測り、自らのプライドと、西方の未来とを天秤にかけていた。
オットーは、己の武勇への自負と、他者に手綱を握られることへの反発の間で葛藤した。
だが、同時に理解もしていた。
自分の部下たちが、ガストンの金やヒルデガルドの祈りのために、素直に命を懸けることはないだろうということを。
この娘の存在は、確かに、兵士たちの無用な軋轢を防ぐための、唯一の緩衝材かもしれなかった。
ガストンは、商人としての打算で状況を分析していた。
指揮権という名誉よりも、この戦いに勝利し、リューベックの経済を立て直すという実利の方が遥かに重要だ。
そして、このリィナという娘には、金では動かせない人の心を動かす不思議な力があることを、彼は商人ギルドの一件で痛いほど知っている。
彼女を繋ぎ役とすることは、最も確実な投資だった。
そしてヒルデガルドは、静かに目を閉じていた。
彼女が信じた孤高の正義は、裏切りによって砕かれた。
だが、目の前の娘が示しているのは、それとは正反対の、泥にまみれながらも人と人を繋ごうとする、不格好で、しかしどこまでも誠実な道だった。
その危うい均衡こそが、あるいは神の御心に適う、新しい時代の形なのかもしれない。
三者三様の沈黙は、やがて一つの結論へと収束していく。
それは、言葉には出さずとも、互いの覚悟を確かめ合うかのような、静かな合意だった。
彼らは皆、この提案が、過去の過ちを乗り越えるための、唯一の道であることを理解していたのだ。
「……よかろう」
オットーは、しばしの逡巡の後、重々しく頷いた。
「だが、それだけでは勝てん。正面からの攻撃は、あくまで陽動。敵の首を獲るのは、別の刃が必要だ」
彼の視線が、ヨナスへと向けられる。
「……俺が行く」
ヨナスは、まるでそれが当然であるかのように言った。
「あんたたちが表で派手にドンパチやってる間に、俺が裏から忍び込んで、親玉の心臓を掻っ攫ってくる。だが、一人じゃ骨が折れる。腕利きのネズミが、もう少し必要だ」
「ならば」
ヒルデガルドが口を開いた。
「我がザルツが誇る最高の山岳猟兵を、あなたの『爪』としてお貸ししましょう」
「リューベックからも、腕の立つ傭兵を出そう。潜入工作のプロフェッショナルだ」
ガストンも続けた。
「俺の護衛兵からも、選りすぐりの者を」
オットーも唸るように言った。
三国が、それぞれの最も鋭い刃を、ヨナスという一つの鞘に収めようとしていた。
その日、三国連合は、新たな段階へと生まれ変わった。
もはや、それは利害だけで結ばれた同盟でも、理想だけで繋がれた連合でもない。
それぞれの独立を保ちながら、ただ一つの目的――「影」の打倒と西方の未来を守る――ために、血と汗と信頼で結ばれる、対等な約束。
『三国協約』の誕生だった。
連合軍の総指揮は、オットーが執る。
リィナは、その後方で三国間の連携を司る、連絡調整官として。
そしてヨナスは、三国から選りすぐられた精鋭で構成される特殊部隊の隊長として。
白い鳩と隼は、今、西方の全ての希望をその翼に乗せ、最後の戦場へと飛び立とうとしていた。




