第三話 商人王の決断
ザルツの白鷲城に、三国連合の再生を誓う朝日が昇った頃、遠く離れた港湾都市リューベックは、夜よりもなお暗い絶望の渦に沈みかけていた。
「影」の策略は、武力や暗殺だけではなかった。
彼らは、この商業都市の最も脆い部分――その心臓である「経済」を、内側から静かに、しかし確実に蝕んでいたのだ。
発端は、些細な噂だった。
「ガストン市長の交易船が、南の海で海賊に襲われ、積荷ごと沈んだらしい」
「ニュルンとの戦争準備で、市の金庫はもう空っぽだそうだ」
市場の片隅で囁かれたその言葉は、まるで見えない毒のように、人々の不安を煽りながら瞬く間に街中へと広がっていった。
次に起きたのは、取り付け騒ぎだった。
噂を信じた商人たちが、ガストンが運営する三国交易所や銀行に殺到し、預けていた資産を我先にと引き出し始めたのだ。
さらに追い打ちをかけるように、ガストンの所有する最大の倉庫が、不審火によって全焼。
復興の切り札として彼が密かに備蓄していた南方の希少な染料が、一夜にして灰と化した。
もはや、彼の信用は地に落ちた。
かつて彼を「リューベックの救世主」と讃えた商人ギルドの長たちも、今は手のひらを返し、彼の無能を公然と非難し始めた。
ガストンは、必死に弁明し、事態の収拾を図ろうとしたが、一度流れ出した金の流出と、人々の猜疑心を止める術はなかった。
彼は、自らが築き上げた富と名声という名の城が、音を立てて崩れ落ちていくのを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
◇
「……ひどい有様だな」
一週間ぶりにリューベックに戻ったヨナスは、街の変わり果てた姿に、苦々しげに呟いた。
活気に満ちていた目抜き通りは閑散とし、多くの店が扉を閉ざしている。
すれ違う人々の顔には笑顔はなく、誰もが互いを疑うような、暗い目をしていた。
「これが、『影』の本当の狙い…」
リィナは、その光景に胸を痛めた。
武力で支配するのではなく、人々の心を疑心暗鬼で満たし、内側から自滅させる。
それは、セレーネが用いた手法よりも、さらに陰湿で残酷なやり方だった。
二人は、オットーとヒルデガルドからの親書を携え、やつれ果てたガストンの元を訪れた。
「…今さら、何の用だ」
ガストンは、酒の匂いを漂わせながら、虚ろな目で二人を迎えた。
「ガストン市長、これは罠です」
リィナは、二人の指導者が「影」という共通の敵を認識し、協力を約束したことを伝えた。
「どうか、あなたも我々と共に…」
「もう遅い!」
ガストンは、子供のように叫んだ。
「オットーもヒルデガルドも、どうせ私が没落するのを高みの見物をしているだけだろう!私にはもう何もない!金も、信用も、部下さえもだ!」
彼は、完全に心を折られていた。
「……一つ、教えてやるよ」
ヨナスは、そんなガストンを冷たい目で見下ろしながら言った。
「あんたが失ったのは、金や信用じゃねえ。ただの『見栄』だ。商人王なんて呼ばれて、いい気になっていたあんたの、くだらねえプライドさ。だがな、この街はまだ死んでねえ。あんたが『民』のために、そのクソみたいなプライドを捨てて、頭を下げる気があるんなら、まだ打つ手は残ってる」
「何だと…?」
「取引の時間だ、市長。俺があんたを破産させた金の流れを暴いてやる。その代わり、あんたは、あんたが今まで見下してきた商人ギルドの連中に、全てを話し、助けを乞え。できるか?…『商人王』さんよ」
ヨナスの言葉は、ガストンの最後のプライドを粉々に打ち砕いた。
だが、それは同時に、彼の心に、忘れかけていた闘志の火を、再び灯すきっかけともなった。
◇
その日から、リューベックが、二人の戦場となった。
ヨナスは、まるで水を得た魚のように、裏社会の闇へと溶け込んでいった。
彼は、スリや娼婦、港の密輸業者たちに金をばら撒き、情報のカケラを一つ、また一つと拾い集めていく。
「ガストンの倉庫が燃えた日、港の沖に所属不明の黒い船が停泊していた」
「最近、羽振りのいいよそ者が、市場の穀物を不自然な高値で買い占めている」
「ガストンを最初に非難した商人ギルドの幹部が、夜な夜な市の外れにある廃教会で、誰かと密会している」
一方、リィナは光の道を歩んだ。
彼女は、ガストンに不信の眼差しを向けている、中小の商人ギルドの代表者たちと、一人一人、対話を重ねていた。
「どうか、もう少しだけ、市長を信じてください。彼は変わろうとしています。この街を、本当に愛しているのです」
彼女の誠実な言葉と、決して諦めないその姿勢は、頑なだった商人たちの心を、少しずつ溶かしていった。
そして三日後、ヨナスはついに決定的な証拠を掴んだ。
廃教会の地下に隠されていた、「影」の会計帳簿。
そこには、彼らがどのようにしてガストンの信用を失墜させ、その裏で誰が利益を得ていたのかが、詳細に記されていた。
ガストンを最初に非難したギルドの幹部が、「影」から金を受け取っていたことも。
その夜、商人ギルドの緊急総会が招集された。
その場に現れたのは、やつれ果ててはいたが、その瞳に確かな光を取り戻した、ガストン市長その人だった。
彼は、壇上に立つと、集まった全ての商人たちに向かって、深く頭を下げた。
「……諸君。私は、間違っていた」
彼の声は、震えていた。
だが、そこにはもう、虚勢も、見栄もなかった。
「私は、商人王などではない。ただ、この街を愛し、しかし、自らの過信によって、その愛する街を危機に陥れた、一人の愚かな男だ。私は、皆の信頼を裏切った。もはや、私に市長の資格はないだろう。だが、この街を、我々の故郷を、見えざる敵の手に渡すわけにはいかない!どうか、この愚か者に、最後のチャンスを与えてほしい!私と共に、この街のために戦ってほしい!」
それは、彼の人生で初めての、私欲のためではない、魂からの叫びだった。
その場にいた商人たちは、彼の真摯な姿と、リィナが提示した動かぬ証拠を前に、これまでの非難が、見えざる敵によって植え付けられたものであったことを悟った。
誰からともなく、拍手が起こった。
それは、やがて、会場全体を揺るがすほどの、大きな喝采へと変わっていった。
リューベックは、その日、再び一つになった。
もはや、それはガストンという一人の王が支配する国ではない。
リィナとヨナスという二つの異なる力が繋ぎ止めた、民が主役の、真の商業都市国家の誕生だった。




