第二話 白鷲の孤城
ニュルンの領主オットーとの歪な協力関係を取り付けた二人に、休息の時間はなかった。
「次に行くのはザルツだ」
鉄猪城を密かに出立した後、ヨナスは凍えるような夜の山道で、息を切らしながら言った。
「ゲルトを殺した毒が、あの敬虔な女伯爵の土地から来たもんだってことを、本人に直接突きつけてやるのさ」
「そんなやり方では、ヒルデガルド伯爵が心を閉ざしてしまうだけです!」
リィナは反対した。
「彼女は、オットー領主やガストン市長とは違います。武力や金銭ではなく、信仰と民の安寧を第一に考える方。誠意をもって話せば、きっと…」
「ハッ、誠意ね」
ヨナスは吐き捨てるように言った。
「その誠意とやらで、俺たちはまんまと牢屋にぶち込まれたわけだが。いいかお嬢様、あんたのやり方は光の下でしか通用しねえ。だが、俺たちが今から行くのは、影が巣食う闇の中だ。そこじゃ、あんたの祈りより、俺のナイフの方がよっぽど役に立つ」
二人の間には、依然として埋めがたい溝があった。
だが、奇妙なことに、リィナはもう、彼の皮肉な言葉に以前ほどの反発を感じてはいなかった。
彼の言う「闇」が、紛れもなく存在することを、彼女はこの数日で痛いほど学んでいたからだ。
◇
ニュルンからザルツへの道は、これまでのどの旅路よりも険しかった。
峻険な山々が連なり、道は狭く、一歩踏み外せば奈落の底へと落ちてしまいそうな断崖絶壁が続く。
冷たく澄んだ空気は、まるで俗世の汚れを拒絶しているかのようだった。
数日後、二人の視界の先に、まるで巨大な鷲が翼を広げて山頂に降り立ったかのような、壮麗な城塞が姿を現した。
山肌の白い岩をそのまま利用して築かれたその城は、陽の光を浴びて神々しいまでに白く輝いている。
ザルツの「白鷲城」だ。
城門で宰相特使の身分を明かすと、二人はすぐに城内へと通された。
だが、それは歓迎の証ではなかった。
城内は静まり返り、すれ違う人々は皆、質素な修道服のような衣服に身を包み、二人を値踏みするような、冷ややかな視線で一瞥するだけだった。
通されたのは、玉座の間ではなく、小さな礼拝堂だった。
壁には歴代の聖人たちの肖像画が掲げられ、空気は祈りと、焚かれた香の匂いで満ちている。
やがて、奥の扉から、ヒルデガルド伯爵が静かに姿を現した。
豪奢なドレスではなく、彼女もまた、清貧を旨とする修道女のような、簡素な白い衣服をまとっていた。
その顔には、深い祈りの跡が刻まれ、その瞳は、俗世の全てを超越したかのような、静かな光を宿していた。
「遠路ご苦労様です、特使殿。そして…そちらの、影の匂いを纏う方」
ヒルデガルドは、リィナだけでなく、彼女の後ろに控えるヨナスの存在も、明確に認識していた。
「単刀直入に申し上げます、ヒルデガルド伯爵」
リィナは、オットーとの会談の顛末と、ゲルト将軍の暗殺に使われた毒がザルツ産であったことを、包み隠さず報告した。
ヒルデガルドは、その衝撃的な事実を、眉一つ動かさずに聞いていた。
「……それで?」
「ご協力をお願いしたいのです!これは、もはや三国連合だけの問題ではありません。この西方全体を、再び戦火に巻き込もうとする、大きな悪意が動いています!」
リィナの悲痛な訴えに、ヒルデガルドは静かに首を振った。
「それは、俗世の争い。オットー卿の野心と、ガストン市長の強欲が生み出した、必然の帰結です。それに、神の教えに背く毒物が、この敬虔なザルツの地から生まれたなどと…そのような冒涜的な作り話、信じるとでも?」
「作り話などでは!」
「聞きなさい、特使殿」
ヒルデガルドは、リィナの言葉を遮った。
「私は、我が民を愛しています。彼らが、血生臭い争いに巻き込まれることなく、神の御心のままに、平穏な日々を送ること。それが、私の唯一の願いであり、務めです。ザルツは、どちらにも与しません。オットー卿がリューベックを攻め滅ぼそうと、ガストン市長が野垂れ死のうと、それは彼らの罪がもたらした罰。我々はただ、この白鷲の城から、静かに祈りを捧げるのみです」
彼女の言葉は、氷のように冷たく、そして揺るぎなかった。
リィナは、返す言葉を失った。
彼女の正義は、あまりに完璧で、孤高すぎた。
他者の痛みを切り捨てることでしか成り立たない、その敬虔さが、リィナには恐ろしくさえ感じられた。
その夜、二人は客として、城の一室を与えられた。
「話にならねえ」
ヨナスは、ベッドに大の字に寝転がりながら吐き捨てた。
「あの女、聖人君子の皮を被った、ただの石頭だ。自分の城壁の内側しか見えてねえ。外でどれだけ人が死のうが、自分たちの祈りの方が大事ってわけだ。反吐が出る」
「……そんな言い方は、やめてください」
リィナは力なく言ったが、彼女自身も、ヒルデガルドの頑なな態度に、深い絶望を感じていた。
その時だった。部屋の扉が、静かにノックされた。
入ってきたのは、ヒルデガルドの側近である、人の良さそうな笑みを浮かべた老神官だった。
「夜分に申し訳ありません。伯爵様からの、ささやかなお夜食でございます」
神官が差し出した盆の上には、温かいミルクと、焼き菓子が乗せられていた。
「伯爵様は、ああは仰っていましたが、特使殿の長旅の疲れを、大変気遣っておられました。あの方の心も、一枚岩ではないのです。どうか、お納めください」
老神官はそう言うと、意味深な笑みを残して部屋を去っていった。
「……少しは、話が通じたのかもしれません」
リィナの顔に、わずかな希望の色が浮かぶ。
彼女は、温かいミルクのカップに、無意識に手を伸ばした。
「待て」
ヨナスの、短く、鋭い声が、彼女の手を制止した。
「どうしたんですか?」
「……おかしい」
ヨナスは、ベッドから飛び起きると、盆の上のミルクを鼻先で嗅いだ。
「この匂い…甘い乳の香りの奥に、ほんの微かに、苦いアーモンドのような匂いが混じってる」
彼は、自分のナイフの先端にミルクを少量つけると、それを蝋燭の炎で炙った。
すると、ミルクは微かな紫色の煙を上げて蒸発した。
「『寡黙なる眠り』…。ザルツの特産品だ。少量ならただの睡眠薬だが、これだけの量なら、二度と目覚めることはねえ。あのクソ神官、俺たちを毒殺する気だったんだ」
リィナは、血の気の引いた顔で、盆の上のミルクを見つめた。
あの人の良さそうな笑顔の裏に、こんな明確な殺意が隠されていたとは。
「なぜ…?ヒルデガルド伯爵の命令だとでも…?」
「いや、違うな」
ヨナスは、冷静に首を振った。
「あの女は、俺たちを追い返しただけで、目的は達成している。わざわざ城の中で毒殺なんていう、面倒な真似はしねえ。それに、あの女の正義は、そういう卑劣なやり口を許さねえだろう。つまり…」
ヨナスの目が、鋭く光った。
「あの神官は、ヒルデガルドを裏切っている。奴は、『影』のスパイだ」
その瞬間、部屋の外の廊下から、複数の足音が聞こえてきた。
「まずい、罠だ!」
ヨナスはリィナの手を掴むと、窓の外へと飛び出した。
眼下は、数百メートルはあろうかという断崖絶壁。
だが、ヨナスは躊躇なく、窓枠から伸びる石の装飾に足をかけ、教会の壁をよじ登るようにして、屋根へと登っていく。
「早くしろ!」
リィナも、必死で彼の後に続いた。
屋根の上にたどり着いた二人を待っていたのは、冷たい夜風と、彼らを包囲するように屋根の四方から現れた、黒装束の暗殺者たちだった。
そして、その中央には、先ほどの老神官が、人の良さそうな笑みを消し去り、蛇のように冷たい目で二人を見下ろしていた。
「…気づくとはな、さすがは『隼』。だが、ここまでだ」
「あんたらが、ゲルト将軍を殺し、兵器庫を爆破したのか」
「いかにも。全ては、我が主、セレーネ様の遺志を継ぐ、あの方の命令だ」
神官は、恍惚とした表情で、天を仰いだ。
「ヒルデガルドは、もはや不要。彼女の敬虔さは、我らの大いなる計画の障害でしかない。お前たちを始末した後、彼女も事故に見せかけて始末し、このザルツを、我らが『影』の新たな拠点とする。聖域は、穢されることで、より強固な闇の要塞となるのだ」
暗殺者たちが、一斉に二人へと襲いかかる。
「リィナ、下だ!」
ヨナスは、屋根の瓦を数枚蹴り飛ばすと、リィナと共に、中庭の茂みへと飛び降りた。
そこからは、息もつかせぬ逃走劇だった。
ヨナスは城の裏の構造を知り尽くしており、リィナを導いて、礼拝堂の地下にある古い地下墓地へと逃げ込む。
「どうするんですか、このままじゃ袋の鼠です!」
「いや、ここが正念場だ」
ヨナスは、地下墓地の壁に刻まれた紋章を指差した。
それは、城の警鐘を鳴らすための、古代の仕掛けだった。
「これを鳴らせば、城中の衛兵が飛んでくる。だが、俺たちも一緒に捕まるだろう。どうする、お嬢様。あんたの言う『誠意』で、ヒルデガルドが俺たちの話を信じてくれる方に賭けるか?」
リィナは、一瞬ためらった。
だが、彼女の瞳には、もう迷いはなかった。
「鳴らします!伯爵は、間違っているかもしれない。でも、彼女が自分の民を愛していることだけは、真実だと信じます!」
リィナは、紋章に、渾身の力で手を叩きつけた。
ゴオオオオオン……!
古びた警鐘が、夜のザルツに、けたたましく鳴り響いた。
すぐに、武装した衛兵たちが地下墓地へと殺到し、リィナとヨナス、そして彼らを追ってきた暗殺者たちを取り囲んだ。
その中央を、ヒルデガルド伯爵が、厳しい顔で歩いてくる。
「これは、どういうことですか、神官」
彼女の問いに、老神官は、もはや隠すこともなく、嘲笑を浮かべた。
「お分かりになりませんか、伯爵様。あなたの祈りは、神には届かなかったのですよ」
神官が合図をすると、彼と共にいた暗殺者だけでなく、ヒルデガルドの護衛兵の一部までもが、彼女に剣を向けた。
「…あなたたちまで…」
ヒルデガルドは、長年信頼してきた部下たちの裏切りに、絶句した。
彼女の孤高の正義は、あまりにも脆く、内側から崩れ去ろうとしていた。
絶体絶命の状況。
だが、その時、地下墓地のもう一方の入り口から、オットー領主が率いる、ニュルンの屈強な歩兵たちが、盾を構えて突入してきた。
「間に合ったようだな、特使殿!」
オットーは、リィナに一度だけ頷くと、裏切り者たちを睨みつけた。
「ヒルデガルド伯爵!あんたがどう思おうと勝手だがな、俺の戦友を殺した外道どもを、あんたの城でこれ以上のさばらせるわけにはいかんのでな!悪いが、掃除させてもらうぜ!」
オットーは、リィナとヨナスがザルツへ向かった後、半信半疑ながらも、彼らの言葉の裏にある真実の匂いを嗅ぎ取り、密かに精鋭部隊を率いて後を追っていたのだ。
形勢は、一気に逆転した。
◇
翌朝、白鷲城の玉座の間は、重い沈黙に包まれていていた。
捕らえられた裏切り者たちは、ヨナスの容赦ない尋問の末、全てを自白した。
ヒルデガルドは、血の気の引いた顔で、その報告書を読んでいた。
自分の理想が、いかに現実からかけ離れていたか。
そして、自分が切り捨てようとした者たちによって命を救われたという皮肉な事実を、彼女は噛み締めていた。
彼女は、玉座から立ち上がると、リィナと、そしてオットーの前に進み出て、深く頭を下げた。
「……私が、間違っていました。私の正義は、ただの独り善がりに過ぎなかった。どうか、この愚か者に、あなた方の戦いに加わる名誉を与えてはいただけないでしょうか」
その言葉は、もはや孤高の聖職者のものではなかった。
自らの過ちを認め、民と仲間と共に未来を切り開こうとする、一人の指導者の、魂からの声だった。




