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エレジア大陸記Ⅳ 白鳩の祈りと隼の爪  作者: 神凪 浩
第二章 信頼への道のり
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第一話 鉄猪の咆哮

 ヨナスの調査は、リィナの想像を遥かに超えるものだった。

 彼が「ビジネスだ」と言って受け取った前金の金貨五十枚は、その日の夜にはもう、彼の懐にはなかった。

 金貨は、より小さな銀貨や銅貨に姿を変え、港の物乞いたちの汚れた手へ、夜の酒場で口の軽い船乗りたちの空のグラスへ、そして衛兵詰所の当直兵が嗜む安煙草へと、まるで水が砂に染み込むように、リューベックの裏社会の隅々まで行き渡っていった。

 ヨナスは、自らの足で聞き込みをするのではなかった。

 彼が育て上げた、蜘蛛の巣のように張り巡らされた情報網が、彼の代わりに街中の「音」を拾い集めるのだ。


 三日後の夜。リィナが宿屋の部屋で焦燥感に駆られながら待っていると、ヨナスは約束通り、夜の闇に紛れるように現れた。

「…収穫はありましたか?」

 彼は、リィナの問いには答えず、テーブルの上に小さな革袋を置いた。

 中から転がり出たのは、ゲルト将軍の体を貫いた(クロスボウ)の矢、そのものだった。

「これは…!」

「現場から回収された、本物の凶器そのものさ。衛兵詰所の証拠品係の役人が、ちょいと物入りでな。金貨数枚で、喜んで『見なかった』ことにしてくれたぜ」

 ヨナスは、矢の先端を指で示した。

 そこには、肉眼ではほとんど分からない、ごく微かな黒い染みが付着している。

「やはりな。矢には毒が塗られていた」

「毒…!?検死報告には、そんなこと…」

「当たり前だ。リューベックの役所の連中は、せいぜい酒の飲み過ぎで死んだ商人の検死くらいしかやったことがねえ、ど素人の集まりだ。こんな特殊な毒、見つけられるはずがねえ」

 ヨナスは、懐からもう一枚、古い羊皮紙を取り出した。

 それは、この大陸の裏社会で取引される毒物のリストだった。

「この毒は、『氷結の涙(フロスト・ティア)』。ザルツの霊峰の、山頂付近でしか採れない特殊な鉱石から精製される神経毒だ。即効性で、心臓の筋肉を内側から凍らせて機能を停止させる。外傷は、ただの刺し傷と区別がつかねえ。おまけに、血に混じると数時間で分解されて、痕跡が綺麗に消える代物だ。最高級の暗殺道具だな」

 リィナは、その事実に愕然とした。

「ザルツの…毒…?じゃあ、犯人はヒルデガルド伯爵だとでも言うのですか?そんな馬鹿な…」

「さあな。だが、これで面白くなってきたじゃねえか」

 ヨナスの口元に、初めて笑みが浮かんだ。

 それは、獲物を見つけた隼のような、獰猛で、冷たい笑みだった。

「ガストンが犯人だと思わせておいて、使われた毒はザル-ツ産。これで、オットーの怒りの矛先は、ガストンとヒルデガルドの両方に向く。三国連合は、内側から完全に崩壊するってわけだ。こいつは、ただの暗殺じゃねえ。もっと大きな絵図を描いてる奴がいる」 その時だった。遠くで、街の時を告げる鐘が、狂ったように鳴り響いたのは。

 二人が窓の外を見ると、ニュルンとの国境方面の空が、不気味な赤い光で染まっているのが見えた。

「…火事?」

「いや、あれは…」

 ヨナスの顔から、初めて余裕の色が消えた。

「火薬庫だ。ニュルンとの国境を守る、リューベック軍のな」


 翌朝、街にもたらされた報せは、二人の最悪の予測を裏付けるものだった。

 リューベック軍の最大の火薬庫が、原因不明の爆発を起こし、備蓄されていた武器弾薬のほとんどが失われたのだ。

 リィナは、青ざめた顔で呟いた。

「これで、リューベックはニュルンに対して、完全に無防備になった…」

 ヨナスがその言葉に頷く。

「ああ。そして、オットーの猪が、この好機を見逃すはずがねえ」


 ヨナスの予測通り、その日の午後には、ニュルン軍が国境を越え、リューベック領内への侵攻を開始したという報せが届いた。

 オットーは、火薬庫の爆発を「ガストンが証拠を隠滅するために自ら行った破壊工作だ」と断じ、もはや交渉の余地はないと判断したのだ。


「どうする、お嬢様。お前の言う『平和的な解決』とやらは、どうやら煙と消えちまったらしいぜ」

 ヨナスが皮肉を言う。

 リィナは、唇を固く噛み締めた。

 彼女の脳裏に、五年前に見た、戦場の惨状が蘇る。

「…ニュルンへ行きます」

「はあ?正気か?今、あの猪武者の元へ行けば、ガストンの仲間だと思われて、串刺しにされるのがオチだぜ」

「それでも、行きます!」

 リィナの瞳には、恐怖を乗り越えた、強い意志の光が宿っていた。

「この新しい証拠を突きつければ、オットー領主も、これが単純な事件ではないと気づくはずです。あなたも、来てください。ビジネスでしょう?」


 ◇


 ニュルンへの道は、すでに戦場の空気に満ちていた。

 街道には、リューベックから逃げ出す難民の列が続き、空には偵察用の魔獣が旋回している。

 リィナとヨナスは、街道を避け、険しい山道を進んだ。

 鉄猪城(アイアンボア)にたどり着いた二人を待っていたのは、殺気立った兵士たちと、冷たい鉄格子の扉だった。

 リィナが宰相特使の身分を明かしても、兵士たちは「スパイの疑いがある」として、二人を牢獄へと放り込んだ。


 湿った石の牢獄で、リィナは絶望に打ちひしがれていた。

 だが、ヨナスは、意外なほど落ち着き払っていた。

「ま、こうなることは分かってたさ」

 彼は、履いていた靴を脱ぐと、そこから一本の針金を取り出した。

 そして、慣れた手つきで、牢の鍵を開け始めた。

「なっ…!あなた、一体…!」

「言ったろ、ビジネスだってな。どんな状況でも、必ず保険はかけておくもんだ」

 彼は、牢から抜け出すと、リィナに手を差し伸べた。

「行くぞ。オットーの寝床まで、案内してやるよ」


 ヨナスは、まるで自らの庭を歩くかのように、鉄猪城(アイアンボア)の警備網を潜り抜け、複雑な通路を進んでいく。

 そして、ついにオットーの私室の前にたどり着いた。

「…ここまでだ。あとは、あんたの出番だろ、特使様」

 リィナは、深く息を吸い込むと、重い扉をノックした。

「誰だ!」

 中から、オットーの不機嫌な声が響く。

 リィナは、扉を開け、単身、部屋の中へと足を踏み入れた。

「夜分に失礼いたします、オットー領主。エレジア王国宰相特使、リィナ・シルバーアッシュです」

「何…!どうやってここに?!」

 オットーは、驚愕に目を見開き、腰の剣に手をかけた。

「お話を聞いていただきたく、参りました。ゲルト将軍を殺した犯人は、ガストン市長ではありません。その証拠が、ここに」

 リィナは、ヨナスから渡された毒の調査報告書を、オットーの前に差し出した。

 オットーは、半信半疑でそれに目を通し、ザルツの毒の名を目にした瞬間、その動きを止めた。

 その時だった。

 城全体を揺るがすほどの、巨大な爆発音が、すぐ近くの兵舎の方角から轟いたのは。

「な、何事だ!」

 オットーが叫ぶ。

 窓の外を見ると、城で最も堅牢なはずの兵器庫が、巨大な炎に包まれていた。

「…まさか…」

 ヨナスが、廊下の闇の中から、苦々しげに呟いた。

「リューベックの火薬庫と同じ手口…。間違いない。死んだはずのセレーネの亡霊、『影』の仕業だ…」

 リィナが提示した新たな証拠と、今まさに起きた破壊工作。

 二つの出来事が、オットーの怒りに凝り固まった思考に、初めて混乱の楔を打ち込んだ。

「『影』だと…?死んだはずのセレーネの亡霊だとでも言うのか!」

「亡霊なら、まだマシだったかもな」

 ヨナスは闇の中から姿を現した。

 その手には、音もなく抜かれたナイフが握られている。

「亡霊は、火薬を扱えねえ。こいつは、生きた人間、それも俺たちと同じ、西方の人間がやったことだ」

「何者だ、貴様は!」

 オットーの屈強な護衛兵たちが、一斉にヨナスに槍を向ける。

「ただの情報屋だ」

 ヨナスは肩をすくめた。

「そして、あんたに取引を持ちかけに来た。俺の情報を買え、オットー。そうすりゃ、あんたの戦友を殺し、あんたの城に火を放った、本当の敵の尻尾を掴ませてやる」

 自領のど真ん中で起きた前代未聞の襲撃に、オットーは激しく動揺していた。

 ガストンへの怒りは消えていない。

 だが、それ以上に、自分の知らない、見えない敵がすぐ足元に潜んでいるという事実に、戦士としての本能が警鐘を鳴らしていた。

 彼は、リィナの誠実な瞳と、ヨナスの侮れない眼光を交互に見比べ、そして、苦渋に満ちた声で唸った。

「……話を聞こう」

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