第三話 白い鳩と隼
安酒場「錆びた碇」は、リューベックの華やかな表通りから見捨てられたかのような、薄暗い路地の奥にその入り口を開けていた。
潮の香りに、腐った魚の臓物と、安いエールの酸っぱい匂いが混じり合った空気が、湿った石壁の間を淀んでいる。
リィナは、意を決して、軋む木製の扉を押した。
カラン、とドアベルの乾いた音が鳴ると、店中の視線が一斉に彼女へと突き刺さる。
酒場の中は、昼間だというのに薄暗く、埃っぽい光の筋が、紫煙の渦巻く空気の中を漂っていた。
床はこぼれた酒でべたつき、壁は長年の煤で黒ずんでいる。
そこにいるのは、屈強な荷運び人、片目の潰れた元傭兵、そして顔に深い傷を持つ船乗りたち。
彼女のような「表」の世界の人間が、決してかかわることのない、荒くれ者たちの巣窟だった。
リィナは、自分に向けられる値踏みするような視線に背筋が凍るのを感じながらも、平静を装い、カウンターへと向かった。
「……水を一杯」
彼女の声は、自分でも驚くほど震えていた。
傷だらけの顔をしたバーテンダーは、何も言わずに、汚れたグラスにぬるい水を注いで彼女の前に置く。
「あの…」
リィナは、声を潜めた。
「『隼』を探しているんです」
その言葉に、バーテンダーの動きが一瞬止まった。
彼は、リィナの顔を、まるで珍しい生き物でも見るかのような目でじっと見つめると、やがて呆れたように、ふっと息を漏らした。
そして、顎で店の最も奥、薄暗い隅のテーブルを指し示した。
「……あそこだ。だが、やめておけ、お嬢ちゃん。あいつは、あんたみたいな人間が関わっていい相手じゃねえ」
リィナがそちらに視線を向けると、一人の青年が、テーブルに片足を乗せ、無造作にナイフでリンゴの皮を剥いていた。
年の頃は二十代前半。
黒い髪は無造作に伸び、着古した革のジャケットを羽織っている。
その姿は、伝説の情報屋というより、ただの街のチンピラにしか見えなかった。
だが、彼がふと顔を上げた瞬間、リィナは息を呑んだ。
その瞳は、若さに似合わず、全てを見透かすかのように鋭く、そして何も信じていないかのように、冷たく澄んでいた。
まさしく、獲物を狙う隼の目だった。
リィナは、ゆっくりと彼のテーブルへと近づいた。
青年――ヨナスは、彼女が目の前に立つまで、一瞥もくれなかった。
「……ヨナス、さん、でしょうか」
「何の用だ」
ヨナスは、ナイフの手を止めずに、ぶっきらぼうに言った。
「ゲルト将軍の暗殺事件について、調べてほしいのです」
その言葉に、ヨナスの手が、初めてぴたりと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、リィナを頭のてっぺんから爪先まで、品定めするように眺めた。
そして、鼻で笑った。
「ハッ、面白い冗談だ。お嬢ちゃん、ここは役所の陳情窓口じゃねえぜ。それとも何だ、お貴族様のお遊びか?探偵ごっこでもして、退屈を紛わしたいってか?」
「ふざけないでください!」
リィナは、彼の侮辱的な態度に、思わず声を荒げた。
「これは、戦争になるかもしれない、一大事なんです!」
「戦争ねぇ」
ヨナスは、削り取ったリンゴの皮を、ナイフの先で器用に弾き飛ばした。
「そいつは結構なこった。戦争が始まれば、武器が売れる、情報が高騰する、俺みたいな商売には、むしろありがたいくらいだ。で、俺に何の得がある?あんたのその青臭い正義感に付き合って」
「お支払い、は…します」
リィナは、悔しさに唇を噛みながら、懐から金貨の入った袋を取り出した。
「言い値で」
「言い値、か」
ヨナスの目が、初めてギラリと光った。
彼は椅子から立ち上がると、リィナの周りをゆっくりと歩き、彼女の身なりを改めて検分した。
「その上等なブーツ、最低でも金貨三枚。質素に見えるが、その服の生地は王都の一級品だ。金貨十枚は下らねえ。それに、その話し方。あんた、ただの旅人じゃねえな。さては、王国から来たお偉いさん、ってとこか」
彼は、リィナの目の前に立つと、その顔をぐっと近づけた。
「いいだろう。前金で金貨百枚。成功報酬で、さらに二百枚。それなら、あんたの探偵ごっこに付き合ってやってもいい」
「なっ…!そんな法外な…!」
「嫌なら帰んな。俺も暇じゃねえんでね」
ヨナスはそう言うと、再び椅子に腰を下ろし、リンゴをかじり始めた。
リィナは、その場に立ち尽くした。
金貨三百枚。
それは、一介の特使である彼女が、独断で動かせる額を遥かに超えていた。
(やっぱり、無理だったんだ…)
諦めかけた彼女の唇から、最後の望みを託すような言葉が、ほとんど無意識に漏れた。
「……一つ、質問してもいいですか?」
リィナは言葉を続けた。
「あなたも、この街の人間ですよね。もし戦争が起きたら、この街も、ここにいる人たちも、無事では済まない。それでも、あなたには関係ない、と?」
「ああ、関係ねえな」
ヨナスは、即答した。
「五年前、あんたたちみたいな『偉い人』が起こした騒動で、俺の家族は全てを失った。店も、家も、未来もだ。その時、誰かが助けてくれたか?正義の味方が、手を差し伸べてくれたか?誰も来やしなかった。だから、俺は学んだのさ。信じられるのは、金と、自分の力だけだ、ってな」
その言葉に、リィナは返す言葉を失った。
彼の瞳の奥にある、深い絶望と諦念。
それは、五年前に自分とカイルがこの地に残していった、癒えることのない傷痕そのものだった。
悔しさと、自らの無力さが込み上げ、彼女の緑色の瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
それでも、彼女はここで引き下がるわけにはいかなかった。
「……分かりました」
リィナは、溢れそうな涙を隠すように、深く、深く頭を下げた。
その声は、堪えきれなかった涙で、わずかに震えていた。
「お金は、必ず用意します。どうか、お願いします。あなたしか、頼れる人がいないんです」
彼女の、飾り気のない、魂からの懇願。
その肩が、悔しさに小さく震えているのが見て取れた。
ヨナスは、かじりかけのリンゴを持つ手を止め、しばらくの間、黙って彼女のうなだれた頭を見つめていた。
そして、大きなため息をつくと、面倒臭そうに言った。
「……金貨、五十枚でいい。前金だ」
「え…?」
「勘違いするな。お嬢ちゃんの涙に絆されたわけじゃねえ。ただの先行投資だ。この街が火の海になっちまったら、俺の商売も上がったりだからな。あくまで、ビジネスだ」
ヨナスは、食べかけのリンゴをテーブルに放り投げると、立ち上がった。
「で、依頼人は、俺に何をさせたいんだ?」
白い鳩と隼の出会い。
それは、光と影、理想と現実が交差する、歪な協力関係の始まりだった。




