第二話 閉ざされた港
その報せがエレジア王国の王都に届いたのは、事件発生から三日後のことだった。
王都を貫く大河から吹き上げる湿った風が、宰相執務室の窓をカタカタと揺らしている。
宰相カイル・ヴァーミリオンは、山と積まれた決裁書類から顔を上げ、伝令がもたらした羊皮紙を静かに受け取った。
その鳶色の瞳が、淡々と綴られた報告文の文字を追うにつれて、温度を失っていく。
ゲルト将軍の暗殺。
ガストンの署名。
そして、ニュルン軍の国境への移動。
「……始まったか」
カイルは、誰に言うでもなく呟いた。
その声には、驚きも、怒りもなかった。
ただ、来るべきものが来たという、深い疲労と、そして自責の念だけが滲んでいた。
(俺の模倣か。だが、より悪質で、より直接的だ)
五年前に彼が三国同盟を内側から崩壊させた謀略。
それは、血を流さずに戦争を回避するための、苦渋の選択だった。
だが、今起きていることは違う。
明確な殺意と、三国間の完全な決裂を狙った、悪意の連鎖。
カイルの脳裏に、死んだはずのセレーネの、氷のような笑みが浮かんだ。
「宰相閣下、いかがいたしますか。王国として、調査団を…」
側近の言葉を、カイルは手で制した。
「無意味だ。今、王国が公式に介入すれば、オットーは『ガストンと王国が裏で手を結んでいた証拠だ』とさらに猛るだろう。ガストンも、王国に弱みを見せることを恐れて口を閉ざす。火に油を注ぐだけだ」
彼の頭脳は、すでにこの盤面の最善手を導き出していた。
だが、その手を使うには、彼自身が動くことはできなかった。
南方から再来しつつある「世界の病」の兆候、東のドワーフとの鉱物資源を巡る交渉――宰相である彼には、あまりにも多くの責務があった。
(俺が行くわけにはいかない。ならば、託せる人間は一人しかいない)
カイルは、側近に静かに命じた。
「リィナ・シルバーアッシュ特使を、至急呼んでくれ」
リィナが宰相執務室を訪れた時、カイルは窓の外に広がる王都の街並みを、ただ黙って見つめていた。
その背中は、五年前の、一介の捜査官だった頃の彼とは比べ物にならないほど、大きく、そして重いものを背負っているように見えた。
「お呼びでしょうか、宰相閣下」
「ああ」
カイルは振り返り、彼女に一枚の羊皮紙を手渡した。
それは、西方からの凶報だった。
リィナは、その内容に息を呑んだ。
五年前に自分が必死に繋ぎ止めたはずの絆が、たった一つの事件で、再び引き裂かれようとしている。
「……ひどい」
「君に、宰相特使としてリューベックへ飛んでもらいたい」
カイルの言葉は、非情なほどに冷静だった。
「任務は、ゲルト将軍暗殺の真相を突き止め、三国間の戦争を回避すること。だが、これは公式な捜査ではない。君には、王国からの支援は一切ないと思ってもらいたい。君自身の判断で、君だけのやり方で、この火事を消してきてほしい」
「私、一人で…ですか?」
リィナの緑色の瞳に、不安の色が浮かぶ。
「いや」
カイルは、静かに首を振った。
「君は一人ではない。君には、五年前に君自身が築いた、彼らとの信頼という武器があるはずだ。俺にはない、君だけの武器がな」
彼は、窓の外に視線を戻した。
「俺が作った傷痕は、俺が癒すことはできない。それは、君にしかできないことだ。頼めるか、リィナ」
その言葉に含まれた、深い信頼と、そして償いの響きに、リィナは迷いを振り払った。
「……はい。お任せください」
◇
一週間後、リィナは再びリューベックの土を踏んでいた。
街の活気は変わらない。
だが、その底流には、ピリピリとした緊張感が漂っていた。
目抜き通りを巡回する衛兵の数は倍以上に増え、人々は互いに視線を交わすことなく、足早に歩いている。
ニュルンとの交易が完全に停止したことで、一部の商店は早くも店を閉めていた。
リィナはまず、三国交易所に向かった。
しかし、建物の前には屈強な傭兵たちが立ち、物々しい雰囲気に包まれている。
彼女が宰相特使の身分証を提示すると、傭兵は値踏みするような目で彼女を睨みつけ、ようやく中へと通した。
市長執務室で待っていたガストンは、五年前に会った時とはまるで別人だった。
自信に満ち溢れていた瞳は、今は寝不足と猜疑心で赤く濁り、豪奢な衣装の下の肩は、絶え間ない重圧に縮こまっているように見える。
「これはこれは、リィナ特使殿。遠路はるばる、ご苦労なことだ」
ガストンの声は、歓迎とは程遠い、乾いた皮肉に満ちていた。
「ガストン市長。五年ぶりにお会いできて光栄です。ですが、このような形での再会は、非常に残念に思います」
リィナは、まず外交官として、穏やかに切り出した。
「単刀直入に申し上げます。ゲルト将軍の件、市長が関わっていないことは、私たちが、いえ、宰相閣下が一番よく理解しております。どうか、私たちに調査のご協力を…」
「協力だと?」
ガストンは、鼻で笑った。
「王国が、この私を信じている、と?笑わせるな。お前たちの宰相は、かつて嘘と謀略で我らを内側から切り崩した男だ。その男が、今度は旧友の死を口実にして、この私に近づき、何を企んでいる?」
「違います!私たちは、この三国連合の平和を心から願って…」
「平和だと!?」
ガストンの声が、激昂して室内に響いた。
「ならば聞くが、なぜオットーの軍は、今も国境で臨戦態勢を解かない!なぜ、ニュルンからの使者は、私の言葉に一切耳を貸そうとしない!そしてなぜ、ザルツのヒルデガルドは、沈黙を守っている!これが、君が五年前に築いた平和の、成れの果てか!」
彼は、机に置かれたワイングラスを掴むと、震える手でそれを一気に呷った。
「いいか、特使殿。今の私には、誰も信じられん。オットーも、ヒルデガルドも、そして、お前たちの王国もだ。これは、我ら三国連合内部の問題だ。王国の介入は、事をさらにややこしくするだけだ。お引き取り願おう」
ガストンはそう言って、非協力的な態度を崩さない。
彼の目は恐怖で完全に曇り、五年前にリィナが必死に繋いだ信頼の糸は、跡形もなく断ち切られていた。
ニュルンからの使者との面会も拒絶され、リィナは完全に孤立した。
(このままじゃ、何も変わらない…)
その夜、宿屋の一室で、リィナは途方に暮れていた。
公式な手段が全て閉ざされた今、彼女の誠意と信頼を武器とする正攻法は、完全に通用しなかった。
(カイルさんは言った。「君だけのやり方で」と。でも、私のやり方は、もう通じない…)
彼女は、窓の外で騒がしく行き交う人々の声に耳を澄ませた。
昼間のガストンの、恐怖に歪んだ顔が脳裏に蘇る。
このままでは、本当に戦争が起きてしまう。
翌日、リィナは自らの無力さを噛み締めながら、あえて人々の喧騒の中に身を置いた。
何か糸口が見つかるかもしれないと、市場の広場を当てもなく歩き、様々な店を冷やかした。
パン屋の行列に並び、魚屋の威勢のいい女将と世間話を交わす。
彼女は特使の身分を隠し、ただの旅の娘として、人々の生の声に耳を傾けた。
「全く、物騒な世の中になったもんだねぇ」
魚屋の女将が、大きな魚を捌きながら愚痴をこぼす。
「衛兵様たちもピリピリしてるし、まともな情報が何一つ入ってこない。こんな時、頼りになるのは役人様より、裏の連中さ」
「裏の連中?」
「ああ。どんな秘密でも嗅ぎつけ、金次第で真実を教えてくれるっていう連中さ。市長様の隠し財産の場所から、あんたの亭主の浮気相手まで、ね。特に『隼』って呼ばれてる男は、とんでもない切れ者らしいよ。まあ、あたしたちみたいな真っ当な商売人には、縁のない話だけどね」
女将はそう言って笑ったが、その目には確かな恐怖の色が浮かんでいた。
その夜、リィナは宿屋の部屋で一人、葛藤していた。
裏社会の情報屋。
それは、彼女がこれまで最も軽蔑してきた存在だった。
法を犯し、人の弱みに付け込み、金のために魂を売る者たち。
そんな者たちの力を借りるなど、宰相特使として、そして一人の人間として、許されることではない。
(でも…)
彼女の脳裏に、カイルの言葉が蘇る。
『俺が作った傷痕は、俺が癒すことはできない。それは、君にしかできないことだ』
(カイルさんは、私を信じてくれた。私の「誠実さ」という武器を。でも、その武器が通じないなら…私は、ここで諦めるの?)
諦めることはできない。
ここに至るまであまりに多くの血が流されすぎた。
これ以上の悲劇は、絶対に繰り返させてはならない。
(もし、カイルさんだったら、どうするだろう。きっと彼は、迷わず闇に手を伸ばす。より多くの命を救うためなら、自らが汚れることを厭わないはずだ)
だが、私はカイルさんじゃない。
(私のやり方…)
彼女は、固く拳を握りしめた。
誠実さや信頼だけで解決できないなら、別の武器を手に取るしかない。
たとえそれが、自分の信念に反するものであっても。
「戦争を止められるなら…」
リィナは覚悟を決めた。
翌日、彼女は一人で、リューベックの裏社会へと続く、薄暗い路地へと足を踏み入れた。
目指すは、港の荷運び人たちが集う、安酒場「錆びた碇」。
そこに、どんな情報でも手に入れると噂される情報屋――「隼のヨナス」がいるという。
それは、彼女がこれまで歩んできた光の道とは全く違う、危険で、汚れた闇への、最初の一歩だった。




