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エレジア大陸記Ⅳ 白鳩の祈りと隼の爪  作者: 神凪 浩
第一章 偽りの凶報
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第二話 閉ざされた港

 その報せがエレジア王国の王都に届いたのは、事件発生から三日後のことだった。

 王都を貫く大河から吹き上げる湿った風が、宰相執務室の窓をカタカタと揺らしている。

 宰相カイル・ヴァーミリオンは、山と積まれた決裁書類から顔を上げ、伝令がもたらした羊皮紙を静かに受け取った。

 その鳶色の瞳が、淡々と綴られた報告文の文字を追うにつれて、温度を失っていく。

 ゲルト将軍の暗殺。

 ガストンの署名。

 そして、ニュルン軍の国境への移動。

「……始まったか」

 カイルは、誰に言うでもなく呟いた。

 その声には、驚きも、怒りもなかった。

 ただ、来るべきものが来たという、深い疲労と、そして自責の念だけが滲んでいた。

(俺の模倣か。だが、より悪質で、より直接的だ)

 五年前に彼が三国同盟を内側から崩壊させた謀略。

 それは、血を流さずに戦争を回避するための、苦渋の選択だった。

 だが、今起きていることは違う。

 明確な殺意と、三国間の完全な決裂を狙った、悪意の連鎖。

 カイルの脳裏に、死んだはずのセレーネの、氷のような笑みが浮かんだ。

「宰相閣下、いかがいたしますか。王国として、調査団を…」

 側近の言葉を、カイルは手で制した。

「無意味だ。今、王国が公式に介入すれば、オットーは『ガストンと王国が裏で手を結んでいた証拠だ』とさらに猛るだろう。ガストンも、王国に弱みを見せることを恐れて口を閉ざす。火に油を注ぐだけだ」

 彼の頭脳は、すでにこの盤面の最善手を導き出していた。

 だが、その手を使うには、彼自身が動くことはできなかった。

 南方から再来しつつある「世界の病」の兆候、東のドワーフとの鉱物資源を巡る交渉――宰相である彼には、あまりにも多くの責務があった。

(俺が行くわけにはいかない。ならば、託せる人間は一人しかいない)

 カイルは、側近に静かに命じた。

「リィナ・シルバーアッシュ特使を、至急呼んでくれ」


 リィナが宰相執務室を訪れた時、カイルは窓の外に広がる王都の街並みを、ただ黙って見つめていた。

 その背中は、五年前の、一介の捜査官だった頃の彼とは比べ物にならないほど、大きく、そして重いものを背負っているように見えた。

「お呼びでしょうか、宰相閣下」

「ああ」

 カイルは振り返り、彼女に一枚の羊皮紙を手渡した。

 それは、西方からの凶報だった。

 リィナは、その内容に息を呑んだ。

 五年前に自分が必死に繋ぎ止めたはずの絆が、たった一つの事件で、再び引き裂かれようとしている。

「……ひどい」

「君に、宰相特使としてリューベックへ飛んでもらいたい」

 カイルの言葉は、非情なほどに冷静だった。

「任務は、ゲルト将軍暗殺の真相を突き止め、三国間の戦争を回避すること。だが、これは公式な捜査ではない。君には、王国からの支援は一切ないと思ってもらいたい。君自身の判断で、君だけのやり方で、この火事を消してきてほしい」

「私、一人で…ですか?」

 リィナの緑色の瞳に、不安の色が浮かぶ。

「いや」

 カイルは、静かに首を振った。

「君は一人ではない。君には、五年前に君自身が築いた、彼らとの信頼という武器があるはずだ。俺にはない、君だけの武器がな」

 彼は、窓の外に視線を戻した。

「俺が作った傷痕は、俺が癒すことはできない。それは、君にしかできないことだ。頼めるか、リィナ」

 その言葉に含まれた、深い信頼と、そして償いの響きに、リィナは迷いを振り払った。

「……はい。お任せください」


 ◇


 一週間後、リィナは再びリューベックの土を踏んでいた。

 街の活気は変わらない。

 だが、その底流には、ピリピリとした緊張感が漂っていた。

 目抜き通りを巡回する衛兵の数は倍以上に増え、人々は互いに視線を交わすことなく、足早に歩いている。

 ニュルンとの交易が完全に停止したことで、一部の商店は早くも店を閉めていた。


 リィナはまず、三国交易所に向かった。

 しかし、建物の前には屈強な傭兵たちが立ち、物々しい雰囲気に包まれている。

 彼女が宰相特使の身分証を提示すると、傭兵は値踏みするような目で彼女を睨みつけ、ようやく中へと通した。

 市長執務室で待っていたガストンは、五年前に会った時とはまるで別人だった。

 自信に満ち溢れていた瞳は、今は寝不足と猜疑心で赤く濁り、豪奢な衣装の下の肩は、絶え間ない重圧に縮こまっているように見える。

「これはこれは、リィナ特使殿。遠路はるばる、ご苦労なことだ」

 ガストンの声は、歓迎とは程遠い、乾いた皮肉に満ちていた。

「ガストン市長。五年ぶりにお会いできて光栄です。ですが、このような形での再会は、非常に残念に思います」

 リィナは、まず外交官として、穏やかに切り出した。

「単刀直入に申し上げます。ゲルト将軍の件、市長が関わっていないことは、私たちが、いえ、宰相閣下が一番よく理解しております。どうか、私たちに調査のご協力を…」

「協力だと?」

 ガストンは、鼻で笑った。

「王国が、この私を信じている、と?笑わせるな。お前たちの宰相は、かつて嘘と謀略で我らを内側から切り崩した男だ。その男が、今度は旧友の死を口実にして、この私に近づき、何を企んでいる?」

「違います!私たちは、この三国連合の平和を心から願って…」

「平和だと!?」

 ガストンの声が、激昂して室内に響いた。

「ならば聞くが、なぜオットーの軍は、今も国境で臨戦態勢を解かない!なぜ、ニュルンからの使者は、私の言葉に一切耳を貸そうとしない!そしてなぜ、ザルツのヒルデガルドは、沈黙を守っている!これが、君が五年前に築いた平和の、成れの果てか!」

 彼は、机に置かれたワイングラスを掴むと、震える手でそれを一気に呷った。

「いいか、特使殿。今の私には、誰も信じられん。オットーも、ヒルデガルドも、そして、お前たちの王国もだ。これは、我ら三国連合内部の問題だ。王国の介入は、事をさらにややこしくするだけだ。お引き取り願おう」

 ガストンはそう言って、非協力的な態度を崩さない。

 彼の目は恐怖で完全に曇り、五年前にリィナが必死に繋いだ信頼の糸は、跡形もなく断ち切られていた。

 ニュルンからの使者との面会も拒絶され、リィナは完全に孤立した。


(このままじゃ、何も変わらない…)

 その夜、宿屋の一室で、リィナは途方に暮れていた。

 公式な手段が全て閉ざされた今、彼女の誠意と信頼を武器とする正攻法は、完全に通用しなかった。

(カイルさんは言った。「君だけのやり方で」と。でも、私のやり方は、もう通じない…)

 彼女は、窓の外で騒がしく行き交う人々の声に耳を澄ませた。

 昼間のガストンの、恐怖に歪んだ顔が脳裏に蘇る。

 このままでは、本当に戦争が起きてしまう。


 翌日、リィナは自らの無力さを噛み締めながら、あえて人々の喧騒の中に身を置いた。

 何か糸口が見つかるかもしれないと、市場の広場を当てもなく歩き、様々な店を冷やかした。

 パン屋の行列に並び、魚屋の威勢のいい女将と世間話を交わす。

 彼女は特使の身分を隠し、ただの旅の娘として、人々の生の声に耳を傾けた。

「全く、物騒な世の中になったもんだねぇ」

 魚屋の女将が、大きな魚を捌きながら愚痴をこぼす。

「衛兵様たちもピリピリしてるし、まともな情報が何一つ入ってこない。こんな時、頼りになるのは役人様より、裏の連中さ」

「裏の連中?」

「ああ。どんな秘密でも嗅ぎつけ、金次第で真実を教えてくれるっていう連中さ。市長様の隠し財産の場所から、あんたの亭主の浮気相手まで、ね。特に『隼』って呼ばれてる男は、とんでもない切れ者らしいよ。まあ、あたしたちみたいな真っ当な商売人には、縁のない話だけどね」

 女将はそう言って笑ったが、その目には確かな恐怖の色が浮かんでいた。


 その夜、リィナは宿屋の部屋で一人、葛藤していた。

 裏社会の情報屋。

 それは、彼女がこれまで最も軽蔑してきた存在だった。

 法を犯し、人の弱みに付け込み、金のために魂を売る者たち。

 そんな者たちの力を借りるなど、宰相特使として、そして一人の人間として、許されることではない。

(でも…)

 彼女の脳裏に、カイルの言葉が蘇る。

『俺が作った傷痕は、俺が癒すことはできない。それは、君にしかできないことだ』

(カイルさんは、私を信じてくれた。私の「誠実さ」という武器を。でも、その武器が通じないなら…私は、ここで諦めるの?)

 諦めることはできない。

 ここに至るまであまりに多くの血が流されすぎた。

 これ以上の悲劇は、絶対に繰り返させてはならない。

(もし、カイルさんだったら、どうするだろう。きっと彼は、迷わず闇に手を伸ばす。より多くの命を救うためなら、自らが汚れることを厭わないはずだ)

 だが、私はカイルさんじゃない。

(私のやり方…)

 彼女は、固く拳を握りしめた。

 誠実さや信頼だけで解決できないなら、別の武器を手に取るしかない。

 たとえそれが、自分の信念に反するものであっても。

「戦争を止められるなら…」

 リィナは覚悟を決めた。


 翌日、彼女は一人で、リューベックの裏社会へと続く、薄暗い路地へと足を踏み入れた。

 目指すは、港の荷運び人たちが集う、安酒場「錆びた碇」。

 そこに、どんな情報でも手に入れると噂される情報屋――「隼のヨナス」がいるという。

 それは、彼女がこれまで歩んできた光の道とは全く違う、危険で、汚れた闇への、最初の一歩だった。

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― 新着の感想 ―
はい!私の作品は「英雄は夕陽に輝く君のために」というものです!まだまだ自分は素人ですが頑張ります!
はじめまして!YAMATOと申します!3話まで読ませていただきました!すごく独特な世界観で面白かったです!!ブックマーク、星評価しました!今後とも応援してます!お互いがんばりましょう!
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