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エレジア大陸記Ⅳ 白鳩の祈りと隼の爪  作者: 神凪 浩
第一章 偽りの凶報
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第一話 平穏の終わり

 五年という歳月は、人の記憶を薄れさせるには十分な長さだった。

 港湾都市リューベックの目抜き通りは、かつての活気を取り戻し、まるで大戦の傷痕など初めから存在しなかったかのように、再生の喜びに満ち溢れていた。

 石畳の上を、鉄の車輪を軋ませる荷馬車がひっきりなしに行き交い、屈強な荷運び人たちの威勢のいい掛け声が飛び交う。

 街を縦横に走る運河には、色とりどりの帆を張った小舟がひしめき合い、船頭たちが巧みな竿さばきで互いをすり抜けていく様は、それ自体が見事な見世物のようだった。

 運河沿いにずらりと並んだ露店の天幕の下では、朝獲れの海産物が潮の香りと共に銀色の鱗を輝かせ、南方の国々から運ばれてきたばかりの色鮮やかな果物や香辛料が、人々の嗅覚を甘く刺激する。

 その隣の区画からは、ドワーフの職人たちが営む工房から、リズミカルで力強い槌の音が途切れることなく響き渡っていた。

 裕福な商人たちの笑い声、異国の言葉で交わされる商談、子供たちのはしゃぎ声、そして吟遊詩人が奏でる陽気なリュートの音色。

 それら全ての音が混じり合い、街全体が巨大な生命体のように、力強く脈打っているかのようだった。


 だが、その熱気と喧騒の裏で、老練な商人ほど、そして貧しい路地裏の者ほど、気づいていた。

 この平和が、薄い氷の上に成り立っていることを。

 誰もがその脆さを心のどこかで知りながら、ようやく手に入れた平穏を壊すことを恐れ、見て見ぬふりを続けていた。


 その日の昼下がり、事件は三国連合の結束を象徴する場所で起きた。

 リューベック、ニュルン、ザルツの三国が共同で運営する「三国交易所」。

 その二階にある豪奢な応接室で、リューベック市長ガストンは、忌々しげにため息をつきながら、窓の外に広がる自慢の港を眺めていた。

「……だから言うのだ、ガストン市長。我らの鉄壁の軍事力こそが、連合全体の平和を守る盾となる。その盾を維持するための費用を、交易で潤う貴殿が負担するのは当然の責務であろう!」

 先ほどまで向かいのソファに座っていた、軍事都市ニュルンのゲルト将軍の、武骨で、どこか商人を侮蔑するような声が、まだ耳の奥で反響している。

(筋肉馬鹿めが。その盾とやらを鍛える金が、どこから湧いて出ると心得ておる)

 ガストンは、絹のハンカチで額の汗を拭った。

 彼の市長としての手腕は、五年でリューベックを大陸随一の商業都市へと復活させた。

 だが、その裏で、彼の個人資産は火の車だった。

 大戦後の復興に私財を投じすぎたのだ。

 その穴を埋めるため、彼は今、危うい綱渡りのような取引に手を染め始めていた。

 ニュルンへの資金援助など、正直に言えばびた一文たりとも払える余裕はない。

 だが、その弱みを、あの猪武者たちに見せるわけにはいかなかった。


「市長、ゲルト将軍は馬の準備が整うまで、別室にてお待ちです」

 側近の言葉に、ガストンは作り笑いを浮かべて頷いた。

「そうか。……せいぜい、ゆっくりしていってもらうといい」

 先ほどの不毛な言い争いが、旧友と交わす最後の会話になるとは、彼はまだ知る由もなかった。


 ゲルト将軍が一人で待つ客室の扉が、ノックもなしに開かれた。

「誰だ!」

 ゲルトが鋭く声を上げるが、返事はなかった。

 入ってきたのは、交易所の下働きを装った、顔に深い傷のある痩せた男だった。

 その手には、給仕盆ではなく、奇妙な形状の(クロスボウ)が握られていた。

「貴様…!」

 ゲルトが腰の剣に手をかけるよりも早く、乾いた発射音が室内に響いた。

 放たれた矢は、ゲルトの屈強な胸当てをいとも容易く貫き、彼の心臓を正確に射抜いていた。

「……馬鹿な…」

 歴戦の勇士は、信じられないというように自らの胸を見下ろし、そのままソファへと崩れ落ちた。

 その口から漏れたのは、怒りでも、苦しみでもなく、ただ故郷に残してきた妻の名だった。

 暗殺者は、倒れた将軍を一瞥すると、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ゲルトの冷たくなっていく指に握らせた。

 そこには、リューベック市長ガストンの署名が、本物と見紛うばかりの精密さで模倣されていた。

 そして男は、まるで影が壁に溶けるかのように、音もなく部屋から姿を消した。


 ◇


「ゲルトが…死んだだと…?」

 軍事都市ニュルンの「鉄猪城(てついじょう)」。

 その質実剛健な作戦室に、領主オットーの獣のような咆哮が響き渡った。

 磨き上げられた武具だけが並ぶ殺風景な部屋で、彼は伝令兵がもたらした凶報を、まるで信じられない怪物でも見るかのような目で見つめていた。

 ゲルトは、ただの腹心ではなかった。

 若い頃から戦場を共に駆け、互いの背中を預け合った、唯一無二の戦友だった。

 オットーは、伝令兵からひったくった羊皮紙――ゲルトが握りしめていたという、ガストンの署名入りの文書――を、握り潰さんばかりに睨みつけた。

 そこには、オットーへの積年の恨みと、これ以上の軍事費の要求を呑むくらいなら、彼を排除するという脅迫の言葉が、ガストンの傲慢な筆跡で綴られていた。

「あの欲深い商人めが…!この私を裏切るとはな!」

「閣下、お待ちください!これは罠です!あまりに…あまりに直接的すぎます!」

 副官の老将軍が必死に諫めるが、怒りと悲しみに我を忘れたオットーの耳には届かない。

(罠だと?そうだ、罠かもしれん。だが、あの商人が、ゲルトと俺を、そして我らニュルンの武威を、心の底から侮っていたことだけは真実だ!)

「罠だと!?ならば聞くが、ゲルトを殺せるほどの腕利きの暗殺者を、この三国で最も簡単に雇えるのは誰だ!ゲルトの予定を、完璧に把握していたのは誰だ!答えは一つしかないだろうが!」

 オットーの怒りは、燎原の火のようにニュルン全土へと広がった。

 その日の夕刻には、ニュルンが誇る二つの重装歩兵軍団が国境へと向けて進軍を開始。

 三国連合は、五年という束の間の平和を終え、再び血で血を洗う内乱の瀬戸際へと立たされた。


 ◇


「……また、人の子の愚かさが、一つ」

 山岳都市ザルツの「白鷲城(しらさぎじょう)」。

 その最も高い塔の一室で、ヒルデガルド伯爵は、ステンドグラスから差し込む柔らかな光の中、静かに目を閉じた。

 彼女の部屋には、武具や豪華な装飾品は何一つなく、ただ壁一面の書物と、古びた祭壇だけが置かれている。

 彼女の元にも、リューベックとニュルンの両方から、それぞれの正当性を主張する使者が訪れていた。

「オットー卿は怒りに目が眩み、ガストン市長は恐怖で理性を失っている。どちらの言葉も、聞くに値しません」

 側近の老神官が、静かに報告する。

「分かっています」

 ヒルデガルドは、深くため息をついた。

 彼女は、最初からこの同盟を信じていなかった。

 金と力、剥き出しの欲望だけで結ばれた関係が、長続きするはずがない。

 歴史がそれを証明している。

「どちらにも(くみ)するつもりはありません。ザルツは、この茶番には付き合わない。そう伝えなさい」

「しかし、それでは連合は…」

「いずれ崩れる運命でした。その時期が少し早まっただけのこと。我々は、我らの民と信仰を守るのみです」

 彼女は立ち上がると、祭壇の前に膝まずいた。

「ああ、神よ…彼らに、安らかなる裁きを。そして、我らに、揺るぎなき平穏を与えたまえ…」

 彼女の祈りは、敬虔で、そしてどこまでも冷徹だった。

 彼女の孤高の正義が、結果として三国間の溝をさらに深めることになるとは、まだ気づかずに。


砂上の楼閣は、たった一発の凶弾によって、今、大きな音を立てて崩れ始めようとしていた。

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