第四話 西方の夜明け
エミールの断末魔が遺跡の闇に吸い込まれた後、訪れたのは耳が痛くなるほどの静寂だった。
精神を苛んでいた不協和音は消え去り、祭壇の禍々しい赤い明滅も、その脈動をゆっくりと止めていく。
自爆術式もまた、主を失ったことで起動することなく、沈黙した。
「……終わった、のか?」
ニュルンの若い兵士が、震える声で呟いた。
その言葉に、それまで張り詰めていた糸が切れたように、特殊部隊の兵士たちは次々とその場にへたり込んだ。
疲労と安堵、そして仲間が生きていたことへの静かな喜びが、広大な空洞を満たしていく。
ヨナスは、ゆっくりとエミールが消えた闇の奈落から視線を外した。
彼の脳裏にはまだ、幻影が見せた父と母の、蔑むような目が焼き付いている。
だが、もう以前のように、その記憶に心が苛まれることはなかった。
ポケットの中にある、リィナがくれた不格好な藁の鳥の感触が、彼を現実に繋ぎ止めていた。
彼は、自分を信じてくれた部下たちの方へ振り返ると、ぶっきらぼうに、しかし確かに感謝の色を込めて言った。
「…よくやった。お前らがいなきゃ、俺は今頃、過去の亡霊に喰われてたぜ」
その言葉に、兵士たちの顔が、誇らしげにほころんだ。
特殊部隊が遺跡から帰還した時、陽動部隊が待つ野営地は、割れんばかりの歓声に包まれた。
遺跡の心臓部が沈黙したことで、正面ゲートを守っていた古代の番人や魔物たちも動きを止め、敵の抵抗が完全に止んだのだ。
オットー、ガストン、ヒルデガルドの三人は、傷つきながらも全員が生還したヨナスと部下たちを、それぞれのやり方で出迎えた。
オットーはヨナスの肩を力強く叩き、ガストンは涙ながらにその労をねぎらい、ヒルデガルドは静かに、しかし深い感謝の祈りを捧げた。
戦いは、終わった。
だが、彼らの仕事は、まだ終わってはいなかった。
確保された遺跡の内部調査が始まり、エミールが残した膨大な研究資料が発見された。
そこには、古代文明の知識を悪用した精神汚染装置の詳細だけでなく、セレーネが生前に集めていた、王国の貴族たちの腐敗を示す数々の証拠も残されていた。
「これは…」
報告書を読んだリィナは、カイルに宛てて、すぐさま報告の書状をしたためた。
西方の脅威は去ったが、王国の病巣は、まだ根深く残っている。
◇
一週間後。三国協約の指導者たちは、再びリューベックの三国交易所で、戦後処理のための会議を開いていた。
「遺跡は、ザルツの管理下に置き、未来永劫封印する。二度と、あのような悲劇を繰り返さぬために」
ヒルデガルドの提案に、誰も異を唱える者はいなかった。
「うむ。そして、今回の戦いで功のあった兵士たちへの褒賞と、犠牲となった者たちへの弔慰金は、我がリューベックの金庫から出そう。これは、贖罪だ」
ガストンのその言葉には、もはや商人としての計算ではなく、民を思う指導者としての温かみがあった。
「そして、問題は…」
オットーが、腕を組みながらヨナスを見た。
「この男の処遇だ。奴は、我らを救った英雄だが、同時に、法を犯し、裏社会に生きてきた無法者でもある。どうしたものか…」
ヨナスは会議室の隅で、リンゴをナイフで剥きながら、退屈そうにそのやり取りを聞いていた。
「おい、隼」
オットーが声をかける。
「お前は、これからどうするつもりだ。褒美なら、望むものをくれてやる。金か?地位か?それとも、俺の軍の士官の席か?」
「いらねえな」
ヨナスは、即答した。
「俺は、俺のやり方でしか生きられねえ。あんたたちの堅苦しい世界は、性に合わん」
彼は、リィナの方を一瞥すると、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「それに、まだビジネスが残ってるんでね。俺の情報のおかげであんたたちが手に入れた平和だ。その平和を守るための『用心棒代』を、これからあんたたちに、きっちり請求させてもらうぜ」
その言葉に、オットーは呆れたように、しかしどこか嬉しそうに、腹の底から笑った。
◇
戦後処理の会議を終え、リィナは王都への帰還の意を伝えた。
だが、三人の指導者たちはそれを静かに引き止めた。
「特使殿」
ガストンが口火を切った。
「あなたの尽力がなければ、今の我々はない。だが、見ての通り、この西方の地は、まだ病み上がりだ。どうか、もう少しだけ、あなたの力を貸してはいただけないだろうか」
「我らの協約は、まだ生まれたばかりの赤子同然」
ヒルデガルドが続けた。
「あなたの『祈り』という名の眼差しで、この子が道を踏み外さぬよう、見守っていて欲しいのです」
「ま、そういうこった」
オットーがぶっきらぼうに締めくくった。
「あんたがいなきゃ、また俺とガストンが殴り合いの喧嘩を始めちまうかもしれんからな」
リィナは、彼らの心からの言葉に、静かに頷いた。
彼女の任務は、まだ終わっていなかったのだ。
◇
数ヶ月後。リューベックの港は、かつてないほどの活気に満ちていた。
三国交易所には、リューベックの海鳥の紋章だけでなく、ニュルンの猛る猪、そしてザルツの白鷲の旗が、潮風に誇らしげにはためいている。
ニュルンから運ばれたばかりの、鈍色に輝く武具や農具が、ドワーフの工房で打ち付けられる槌の音と競うように荷下ろしされていく。
ザルツの山岳部でしか採れないという希少な薬草や鉱石が、南方の香辛料の甘い香りと混じり合い、市場に新たな彩りを添えていた。
かつて互いを疑いの目で見ていた商人たちが、今では肩を組んで酒を酌み交わし、異国の言葉で交わされる商談は、以前にも増して熱を帯びていた。
石畳の上を鉄の車輪を軋ませて行き交う荷馬車の数は以前の比ではなく、街を縦横に走る運河は、色とりどりの帆を張った小舟で埋め尽くされている。
だが、一番の変化は人々の表情だった。
かつて彼らの心の底に澱のように溜まっていた、拭いきれない不信感は消え去っていた。
屈強な荷運び人たちの威勢のいい掛け声も、裕福な商人たちの笑い声も、吟遊詩人が奏でる陽気なリュートの音色も、その全てが、ようやく手に入れた平穏を壊すことへの怯えではなく、未来への確かな希望に満ち溢れていた。
東門の改修工事を見守っていたリィナの元に、真新しい連合治安維持部隊の制服を、少し着慣れない様子で身にまとったヨナスがやってきた。
「よう、連絡調整官殿。サボりか?」
「違います。定期視察です」
リィナは笑って答えた。
二人の間には、もう以前のような棘のある空気はない。
「……あのお守り。役に立ったみたいですね」
リィナが、彼のポケットを指して言った。
「ああ?ああ、あれか」
ヨナスは、わざとらしく空を見上げた。
「まぁ、気休めにはなったぜ。ただの藁人形にしちゃあな」
「……そうですか」
「だがな」
ヨナスは、活気を取り戻した街並みを見渡しながら、少しだけ照れくさそうに言った。
「あんたが王都に帰る時までには、胸を張って『俺の街だ』って言えるくらいには、しておいてやるさ。…用心棒代分の、前払いってやつだ」
リィナは、その言葉に、満面の笑みで頷いた。
「ええ。楽しみにしています」
西方の地には、もう偽りの平和も、セレーネの影も存在しない。
そこにあるのは、多くの血と、汗と、そして涙の上に築かれた、不格好で、しかしどこまでも確かな、新しい時代の夜明けだった。




