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エレジア大陸記Ⅳ 白鳩の祈りと隼の爪  作者: 神凪 浩
第三章 西方の夜明け
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第三話 影との決着

 古代遺跡の迷宮を抜けた先は、まるで巨大な生物の体内を思わせる、広大な空洞だった。

 天井からは、鍾乳石のように垂れ下がった巨大な鉱石が、地脈から絶えず吸い上げた魔力を帯びて、青白い幽光を放っている。

 空気はひどく淀み、金属と、オゾンのような異質な匂いが混じり合っていた。

 その光がおぼろげに照らし出すのは、空洞の中央に鎮座する、巨大で禍々しい装置の輪郭だった。

 黒曜石のように滑らかな金属と、まるで生きているかのように脈打つ血管のようなものが浮き出た赤い鉱石が、見る者の正気を削るような不快な角度で歪に組み合わさっている。

 それこそが、大陸全土を狂気に陥れる精神汚染装置の心臓部だった。

 その祭壇からは、断末魔の叫びを圧し固めたかのような、低い唸りが絶え間なく響いていた。


「…お出ましだ」

 ヨナスが吐き捨てた声に、三国の精鋭たちで構成された特殊部隊の兵士たちが、一斉に武器を構える。

 誰もが、その異様な光景に息を呑み、額に脂汗を浮かべていた。

 祭壇の奥、最も深い暗闇から、一人の男がゆっくりと姿を現した。

 豪奢な貴族の服でも、屈強な戦士の鎧でもない。

 ただ、上質な学者のローブをまとった、線の細い、穏やかな笑みを浮かべた男だった。

「歓迎するよ、西方の英雄諸君。そして…『隼のヨナス』」

 男の声は、その場にいる誰よりも若く、そして誰よりも老いているように聞こえた。

 その響きは、まるで墓石を爪で引っ掻くような、不快な周波数を帯びていた。

「あんたが、『影の継承者』か」

「いかにも。我が名はエミール。かつて、偉大なるセレーネ様の傍らで、歴史の記録者を務めていた者だ」

 エミールと名乗った男は、芝居がかった仕草で一礼した。

 その瞳には、狂信者の熱もなく、復讐者の怒りもない。

 ただ、自らの理論の正しさを証明しようとする、冷たい知的好奇心だけが宿っていた。

「セレーネ様は、性急すぎた。彼女は、怒りと憎しみという、あまりに人間的な感情に囚われ、駒を操ることを楽しんだ。だが、駒は駒だ。裏切り、壊れる。実に非効率的だ。だから私は、より確実な方法を選ぶことにした。駒を操るのではない。盤上そのものを、私の望む色に塗り替えるのだ」

 エミールがそっと手を掲げると、祭壇の赤い紋様が、心臓の鼓動のように激しく明滅を始めた。

 その光は、兵士たちの瞳の奥に直接焼き付くように、網膜を刺激する。

「起動まで、あとわずか。お前たちが、私の完璧な世界の、最初の観客となるがいい!」

 遺跡全体が、低く呻くような振動を始める。

 空気が歪み、兵士たちの精神に直接、不協和音が響き渡った。

 それは音というより、思考そのものを揺さぶる精神的な攻撃だった。

「来るぞ!意識を保て!」

 ヨナスの叫びも虚しく、屈強な兵士たちが、次々とその場に膝をつき、自らの頭を抱えて苦しみ始めた。

 ニュルンの兵士の目には、隣に立つリューベックの傭兵が金貨を貪る化け物に見え、ザルツの猟兵の耳には、オットーの軍靴が自らの故郷の山を踏み荒らす音が聞こえていた。

 そして、ヨナスの世界は、音もなく、色を失った。

 気づけば、彼は五年前に全てを失った、リューベックの波止場に一人で立っていた。

 空は鉛色で、活気のあった港は静まり返っている。

 潮の香りではなく、腐った水の澱んだ匂いが鼻をついた。

 彼の目の前には、今は亡き父と母の幻影が、蔑むような目で彼を見下ろしていた。

『なぜ、お前だけが生きている』

 父の幻影が、冷たく言った。

 その声は、生前の優しかった頃のものではない。

 商売に失敗し、酒に溺れていた頃の、陰鬱な響きだった。

『お前が、もっと賢ければ。お前が、あの時、汚い手を使っていれば。我らの商会は、潰れずに済んだのだ』

『あなたが見捨てたのよ』

 母の幻影が、泣きじゃくりながら彼を指差す。

 その指は、かつて彼の頭を優しく撫でた手ではなく、骨と皮ばかりに痩せこけていた。

『私たちを見捨てて、自分だけ、裏社会のドブネズミになって生き延びて…!』

「違う…!俺は…!」

 それは、ヨナスが心の最も深い場所に封じ込めてきた、罪悪感そのものだった。

 自分が生き残るために、家族の思い出さえも踏み台にしてきたという、消えない自己嫌悪。

『ならば、やり直すがいい』

 エミールの声が、天から響き渡る。

『お前の望む世界を、私が与えてやろう。金と力が全てを支配する、お前にとって最も生きやすい世界を。さあ、その引き金を引け。その女を殺せば、お前の新しい世界が始まる』

 ヨナスの手に、ずっしりと重い(クロスボウ)が握られていた。

 その照準の先には、何も知らずに彼を信じ、無防備に背を向ける、リィナの幻影が立っていた。

 彼女は、港に咲く一輪の花を、慈しむように見つめている。

(こいつさえいなければ…俺は、昔の俺のままでいられた…)

 理想、信頼、仲間。

 彼が捨てたはずの全てを思い出させ、彼の心をかき乱す元凶。

 彼女の存在そのものが、彼の孤独を際立たせる。

 ヨナスの指が、ゆっくりと引き金にかかる。


 その、永遠にも思えた一瞬。

「隊長!」

 幻影の世界の外から、声が聞こえた。

 それは、ニュルンの若い兵士の声だった。

「隊長の命令がなけりゃ、俺たちはここまで来れなかった!あんたの背中を信じてる!」

「そうだ!」

 ザルツの猟兵が叫ぶ。

「あんたの『爪』は、俺たちの道を開く!俺たちの道を、見失うんじゃねえ!」

 部下たちの、泥臭く、しかし嘘のない声。

 それは、幻影の父と母が囁く、冷たい過去の呪詛を打ち破る、温かい楔となった。

 ヨナスは、ポケットの中に手を入れた。指先に、硬く、不格好な何かの感触が触れる。

 それは、彼がこの任務に発つ前夜、リィナが「お守りです」と言って、半ば強引に握らせてきた、ただの藁で編んだ小さな鳥だった。彼女の故郷の畑で穫れたという藁を使った、不器用で、何の魔力もない、ただの人形。

『ヨナスさんは、隼なんかじゃありません。あなたは、傷ついただけの、優しい人です』

 リィナの声が、脳裏に蘇る。

 その温もりが、指先から、彼の凍てついた心へと伝わっていく。

そうだ、俺はもう、独りじゃない。

「……うるせえ」

 ヨナスは、目の前の幻影に向かって、静かに、しかしはっきりと呟いた。

「俺は、商人にも、ドブネズミにもならねえ。俺は、俺だ。過去の亡霊にくれてやるほど、安っぽい人生じゃねえんだよ」

 彼がそう言い放った瞬間、幻影の世界はガラスのように砕け散った。

「…見事だ」

 エミールは、心から感心したように拍手した。

「だが、時間切れだよ」

 祭壇の光が、最大に達する。

 だが、エミールが勝利を確信したその時、彼の足元が、轟音と共に崩れ落ちた。

「なっ…!?」

「言ったろ、俺の専門は、裏から手を回すことだってな」

 ヨナスは、不敵に笑っていた。

 彼が幻影と戦っている間に、彼を信じる部下たちは、彼の最後の指示通り、祭壇の土台となっている部分に、リューベックの傭兵が持っていた強力な溶解液を流し込んでいたのだ。

 バランスを失ったエミールに、ヨナスのナイフが、闇を切り裂く隼のように閃いた。

「終わりだ、『先生』」

 学者のローブをまとった男の、最期の言葉はなかった。

 ただ、自らの完璧な理論が崩れ去ったことへの、純粋な驚愕だけをその目に浮かべ、その命を闇の中へと消し去っていった。

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