氷の怒り
ある日のこと。レオニウスのもとに、一通の手紙が届いた。
差出人はクラリス。内容は短く、こう書かれていた。
『今すぐお会いしたいことがございます。邸宅の外で、お時間をいただけませんか』
文字は少し震えていたが、誠実さが滲んでいた。
レオニウスは、わずかに眉を上げた。
「……珍しいな」
すぐに外出の準備を整え、馬車に乗る。
しかし、その待ち合わせ場所に現れたのは――クラリスではなかった。
「初めまして。……伯爵様」
そう言って優雅に一礼したのは、エリザだった。
クラリスと似た顔立ち。だがその目は、氷よりも冷たい野心に満ちていた。
「突然のお呼び立て、失礼いたしました。でも……こうでもしないと、あなたに本当のことをお伝えできなかったのです」
「……何の話だ」
レオニウスの声は低く、感情が感じられない。
「妹のクラリスは、無知で、無能で、人付き合いもできない子です。あのような者が貴族の妻にふさわしいとは、とても思えませんわ」
エリザは微笑みながら、滑らかに嘘を重ねる。
「それに引き換え、私は礼儀作法も、教養も、家柄も申し分ありません。あなたのような方にこそ、ふさわしいのは私……」
その瞬間だった。
レオニウスの表情が、凍りついたように変わった。
いや、もともと無表情だったその顔に――初めて、はっきりとした「怒り」が浮かび上がった。
その気配は、冷気のように周囲の空気すら変える。
睨みつけられたエリザは、初めてその威圧感に押されて一歩後ずさる。
「……黙れ」
「え……?」
「失せろ」
その一言は、感情を押し殺した冷たい刃のようだった。
言葉よりも恐ろしかったのは、その目だった。
人の命など、平然と奪えるような――氷の底に眠る殺意。
エリザは一瞬で青ざめ、悲鳴も出さずにその場を駆け去った。
レオニウスは振り返ると、背後に立ち尽くしていたクラリスを見た。
目に涙を浮かべ、肩を震わせていた。
「……間に合わなかった……ごめんなさい……」
「……いい。全部、わかった」
レオニウスは静かに彼女の前に立ち、帽子を取った。
「クラリス・エセルレイン。君をこのまま、あの屋敷に戻すわけにはいかない」
「……え?」
「私の邸宅で保護する。これは命令だ。反論は……受け付けない」
初めて、冗談めいた口調だった。けれどその瞳は真剣で、クラリスをまっすぐに見つめていた。
「君は……もう一人で戦わなくていい」
――こうして、クラリスはレオニウスの広大な屋敷に迎え入れられた。
それは、ただの保護ではなかった。
クラリスという一人の女性が「大切にされる」人生の、始まりだった。