優しさの気配
四度目のお見合いを目前にした朝――
クラリスは姉エリザの怒声と共に、朝食の席で水をかけられた。
「なによ、その顔。幸せそうじゃない。なにかいいことでもあったの?」
言いながら、エリザはテーブルの上のガラスのコップを乱暴に掴む。
その手には迷いがなかった。
ガシャッ――!
突如、コップが宙を舞い、クラリスの腕をかすめて砕けた。
鋭い痛みと共に、白い袖がじんわりと赤く染まっていく。
「……っ……!」
「あら、ごめんなさい。手元が滑ったわ」
そう言って、エリザは鼻先で笑った。
何とか部屋へ戻り、クラリスは傷口を自分で洗い、包帯を巻いた。
少し腫れていたが、上着の袖で隠せば問題ない――そう、自分に言い聞かせた。
(大丈夫、今日はレオニウス様に会える日……)
それだけが、クラリスの心を支えていた。
邸宅に着いたとき、レオニウスはいつものように無表情で迎えてくれた。
けれど、クラリスがそっと腕を庇うような仕草をした瞬間――
彼の目が細くなった。
「……怪我をしたのか?」
「えっ……あ、いえ。ちょっと……転んだだけで……」
ぎこちなく笑いながら答えるクラリス。
しかしレオニウスはじっと彼女の表情を見つめ、何も言わずにうなずいた。
その日も、ぎこちない会話が続いた。
天気の話、最近読んだ本の話。うまく言葉をつなげることはできなかったが、レオニウスは一つ一つ丁寧に頷いてくれた。
そして別れ際、庭へ向かう道で――
彼はふと立ち止まり、クラリスの方を向いた。
「……何かあったら、私に相談してほしい」
「……!」
その声は、今までよりもずっと柔らかく、温かかった。
クラリスは驚いて、少しだけ目を見開いた。
「……はい。ありがとうございます」
小さく返したその言葉には、涙のような微笑みがにじんでいた。
――だが、夢のような時間が終わり、自宅に戻れば現実が待っていた。
「また会ってきたのね」
エリザが部屋の前で待ち構えていた。目には怒りと嫉妬が渦巻いている。
「なに、調子に乗ってるの? あんな無口で冷たい男に、まさか本気で好かれてるとでも?」
「……そんなこと……思ってません」
「だったら、さっさと消えなさいよ。目障りなのよ、あんたなんか」
そう言って、エリザはクラリスの肩を突き飛ばす。
クラリスはよろめきながらも、唇を強く結んで立ち上がる。
(……大丈夫。あの人が……私の味方になってくれるかもしれない)
心に灯った小さな希望だけが、クラリスを支えていた。