迷子とささやき
三度目の訪問の日。
クラリスは、再びレオニウス伯爵の領地へと向かっていた。
今回は、彼の申し出で邸宅を案内してもらえることになっていた。
桁違いの広さを誇る本宅――その門をくぐった瞬間から、クラリスは目を見張った。
「……お、お城みたい……」
高い天井に繊細な装飾が施されたシャンデリア、まるで鏡のように磨かれた床、廊下の先には使用人たちが整列している。
案内役の老執事が説明するのを聞きながら、クラリスはこくこくと頷くことしかできなかった。
(わたしには、場違いかもしれない……)
その思いは強くなるばかりだった。
案内の途中で、ふとトイレに行こうとして廊下を一本逸れたときだった。
――戻れない。
「あれ……どっちだった、かな……?」
右に曲がったはず、いや、左?
似たような廊下が続く館で、完全に方向を見失ってしまった。
「……どうしよう……」
不安が喉元までせり上がってきたその時だった。
「……こっちです」
静かにかけられた声に振り向けば、そこにはレオニウスが立っていた。
相変わらず無表情だったが、その背に妙な安心感があった。
「ご案内します」
「す、すみません……私、方向音痴で……」
「構いません。……迷うのは、ここが広すぎるからです」
その言葉が妙に優しく感じられた。
導かれるようにして、クラリスは再び元の案内に合流した。
そして見学の終わり際、邸宅の裏手に広がる広大な庭園へと向かう。
庭には手入れされた花壇や噴水、そして一際目を引く大きな桜の木が立っていた。
春の光の中で、その花は満開に近かった。
「……綺麗ですね」
ぽつりと、クラリスが呟いた。
すると、隣に立つレオニウスが、ほんのわずかに視線を揺らし、低く、かすれるような声で言った。
「……あなたも……」
「……え……?」
風に紛れて、その声ははっきりとは聞き取れなかった。
けれど、たしかに「あなたも」と聞こえた気がした。
(え……今、わたしのことを……?)
心臓が、ひときわ強く跳ねた。
帰りの馬車の中でも、クラリスの耳にはその言葉が残り続けていた。
静かで、温かくて、そして――どこか不器用で。
(……あの人も、私のことを……)
しかし、自宅に戻った瞬間、その余韻はあっけなく崩れ去った。
「随分ご機嫌ね。なに? 氷の伯爵様と目でも合わせられたの?」
姉エリザが腕を組み、冷笑を浮かべて待ち構えていた。
「こんなボロ服でよく邸宅なんか行けたわね。あっちの使用人たち、笑いこらえてたんじゃないの?」
「……そんなこと……」
「ふぅん? まあいいわ。どうせすぐ飽きられるわよ。あの冷たい男に相応しいのは、私のような完璧な女なの。……あんたじゃない」
クラリスは言い返せず、うつむいた。
けれど、心の奥では――一言だけ、レオニウスが言ったあの言葉が、静かに灯り続けていた。
「……あなたも……」
春の嵐が、静かに迫っていた。