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「大丈夫ですか」
声と共に逆光の中差し伸べられた手は、真っ白な手袋で覆われていた。思わず持ち上げた自分の手は泥水で汚れていて、掴んでも良いのか迷っていると、その男性はすかさず、手を掴み勢いよく立ち上がらせた。
「あの」
「お待ちしておりました。聖女様」
「聖女?」
少女がびっくりするのをよそに、その男性は羽織っていた紺のマントをはずし、泥だらけの肩にかけた。
少女が振り返れば、泥水の中に綺麗な白い花がポツポツと咲いて淡く光っていた。先ほどまで少女がいた場所はお世辞にも綺麗とは言えず、周りも薄暗く、木々がこの場所を覆い隠していた。
「あの、ここは? 私は」
「ご安心ください、貴方様は聖女様です」
「聖女って言われても」
過去を思い出そうとするも頭に釘を刺したような鋭い痛みが走るだけで、何も思い出せなかった。
「まずはお召し物を整えましょう。こちらへどうぞ」
「あの、貴方は誰なんですか?」
「あぁ! 申し訳ありません。自己紹介がまだでしたね。私はクロードウィックと申します」
名乗りながら優雅にお辞儀をしたクロードウィックは、柔和な笑顔を浮かべた銀髪に碧眼の美しい男性だった。まるで天使のような男だと少女は思った。
「クロードウィックさん」
「はい。急いで日が暮れる前に森を出ましょう。早く出ないと足元も見えないほどに暗くなってしまうのです」
「は、はい」
クロードウィックは少女と手を繋ぎ、歩みを始めた。彼にとってはゆっくりかもしれないが、少女よりも歩幅が広く、どうしても小走りになってしまう。
「あぁ、すいません。お辛いですよね。失礼」
少女が息切れし始めた頃に、クロードウィックは気づき、振り返ると少女をお姫様抱っこをした。
「え?!」
「しっかり捕まっていてください」
先ほどとは違い早い進みに少女は驚いた。周りの木々はあっという間に通り過ぎ、木々の先から赤い光が漏れているのが見えた。
朱色に塗りつぶされたように見えた先に到着すると、一気に視界は開け、空が赤から紫色に染まっていた。先ほどの色は釉薬の色だったのかと気づき、ふと後ろを振り返ると森の中だけ黒い帷が落ちたように不気味なほど暗かった。
クロードウィックの歩みは止まらず、彼が向かう先には大きな木の下に馬が一頭繋がれていた。
「ここから先は馬に乗って移動します。もう少々辛抱してください」
軽々と馬に乗せられて緩やかな丘を疾走した。爽やかな草の香りを肺いっぱいに吸い込むと、少女はなんだかホッとした。
遠くの方に細くたなびく煙が見え、人の営みがやっと見えはじめると、なぜか懐かしさが込み上げてきた。
そこは小さな町で歪な石垣で囲われた町だった。
中に入ると門が閉じられ、皆がクロードウィックに挨拶をしていく。
「聖女様がいらっしゃったのですね」
「こんばんは、領主様」
「こんばんは」
「領主さまこんばんはー」
「こんばんは」
「聖女様? こんばんはー」
皆、説明もなしに少女が聖女だと疑う様子もなく、当たり前のように聖女にも挨拶をする様子に少女が驚いていると、他の家よりも大きい家に向かっていることに気づいた。町の人々は家路の途中らしく、軽く手を振っていくものもいる。
冷たい風に身震いをすると、クロードウィックが背を撫でた。
「もうすぐ着きますので」
その言葉通り、少し小高い坂を登った先で、先ほど見えた大きい家の前に着くと、使用人たちが家から出てきて丁重に出迎えた。
「冷えてしまっているので湯船に浸からせてくれ」
「かしこまりました」
クロードウィックが伝えると、年配の使用人の女性がこたえ、そのまま少女を浴室へと連れて行った。浴室はすでに温められており、泥だらけの服は脱がされ、泥を落とし、暖かい湯船でうとうとしていると、引き上げられて綺麗なドレスに着替えさせられた。
「聖女様、ハーブティーでございます」
出されたお茶を飲むと、爽やかでいて甘みのあるお茶は少女の好みの味で、思わずホッとしてそのままソファに埋もれるように背もたれに寄りかかった。
使用人達は片付けのためか部屋から出ていって、今は少女一人きり。
「なんか、流されるままに来てしまった。……聖女ってなんだろう?」
体が温まり、しかも美味しいハーブティーでリラックスしてしまったせいか眠くてしかたがない、頑張ってみても瞼が落ちてしまう。
自分が何者なのかもわからないというのに、連れて来られたこの場所もよく知らないのだから緊張を解いてはいけないと思いつつも、体はいうことを聞かずまるで解けるようにソファに沈み込んでいく。
(あぁ、カップを机に置かなくちゃ)
こぼしてしまうと思っていると、手からカップが消えた感触がした。
「大丈夫ですよ。聖女様ゆっくりお休みください」
頭を優しく撫でられてしまうと、もうダメだった。あっという間に瞼の裏の闇に飲まれてしまった。