Bitter Chocolate Girl
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ぐっちゃぐっちゃのキッチンを見て、思わず声が出てしまった。
「何だ、これ……」
『Bitter Chocolate Girl』
「え? ミオは知らないの?」
級友が目を丸くして訊ねた。
ミオが素直に「知らない」と応えると、うそぉ、とでも言いそうな口の動きをしたが、思い直したらしく「そっか」と落ち着いた声色で言って小さく頷く。彼女のそういう処がミオにはちょっと嬉しくて、好きだ。
「もしかすると、この辺りだけの風習なのかもね」
憶えとく、と言って彼女は説明をしてくれた。
「ショコラをね、好きな人に贈る日なのよ」
「好きな人?」
「恋人とか片想いの相手とか……」
「カヤも?」
彼女の手にはショコラを作る為の製菓材料が握られている。好きな人がいるとは知らなかった。カヤは軽く首を傾げたミオを見て笑顔になった。
「友達同士で交換したり、家族に贈る人もいるわよ。感謝の気持ちで渡す人は多いし……。私は毎年お父さんに作ってあげるのが恒例なの」
ふうん、と頷く。店内は甘い香りで満ちている。
「完成品を買うのも良いけど、結構高価いしさ。手作りの方が気持ちがこもってる気がするじゃない?」
そういうものなの? と訊けば、そういうものよ、と返された。
ミオはちょっと考えて、それから手を伸ばした。
この家に引き取られたのは十歳の時、今から五年前の事だ。
母が亡くなり、保護者の居なくなった私は父の家に引き取られた。
どうして母が父と一緒に住んで居なかったのかは良く解らない。ただ、父は忙しく、父の家に引き取られてからも、結局父と貌を合わせるのは年に数度の事だ。だから、あの家で暮らすのも、この家で暮らすのも大差は無かったのかも知れない。
ただ、この家には父の他に住人が居る。父の先妻の子で、私とは八つ年の離れた兄。
父に紹介された時の、彼の驚いた表情は今でも忘れられない。父は、母と私の事を兄には 告げていなかったらしい。私も母が死ぬまで兄の存在を知らなかった。そういう処がずぼらな父なのだ。
父は私の学術院への転入手続きを済ませると、さっさと仕事に行ってしまい、残された兄と私の共同生活はそこから始まった。
元々、母子二人の生活だったから大概の事は出来た。他人(一応血の繋がりはあるが)と暮らすのも、何とか頑張ってこれたと思うけれど。
――無理するんじゃ無ぇよ。
ある日言われた、その言葉。
憎まれ口を叩いてばかりの私に、いつも買い言葉で応酬していた兄は、あの時、 そうやって慰めてくれた。
いつも工具を弄っている、大きくてごつい手が頭を撫でて……、
(って、ぎゃああああああっっっ!!!)
心中で絶叫。何て恥ずかしい場面を思い出しているんだ私はっ!
ゴン、と派手に頭をぶつけて、今度は声が漏れた。――痛い。
あまりの激痛にうぅうぅと呻いていると、ドアが乱暴に開かれた。
「何だ、今の音はっ!?」
私がまたぞろ何かやらかしたと思ったのだろう、兄が血相を変えて入ってくる。
「勝手に、入って、こないでよッ」
強い痛みに、毎度の文句も滑らかに出てこない。いつものように手近なものを投げつけようとして、はっとする。手にしたそれを慌てて後ろ手に隠した。
が、目聡い兄はそれに気付いたらしい。目を眇めて、
「お前、今、何隠した?」
と訊ねてくる。いやいや、こればかりは見付かる訳に行かない。
「なんでも、ない」
この痛みさえなければ、さっさと兄を追い返してしまえるというのに、動く事もままならず。
「……椅子に頭、ぶつけただけ」
ああ、こんな言い訳をしなきゃいけないなんて、ミオ一生の不覚だ。
なんて思っていたら、兄は頭を押える私の腕を掴んで、ぐいと頭を引き寄せた。
「怪我はっ?」
慌てる兄の声。
かっと頭に血が昇った。
「い、」
「『い』?」
兄は復唱して小さく首を傾げた。その貌に、大きく、
「いやあ~~ッ、へんたい~~~!!」
叫んでしまった。
悪気があった訳では、決して、ない。
***
自宅の屋根が見えてきたところで溜息。
まぁ、あいつの悪口雑言はいつもの事だし、馬鹿阿呆まぬけヘンタイは、ミオの常套語なのだけれど。
さすがに、――もう一度言おう――、さすがに、心配しての「へんたい」には、心をがっつり抉られた。
相手が(たいへん凶暴ではあるが)一人前のおなごであった事を、すっかり失念していた自分も大いに悪いのだけれど。
一体、どうやって、機嫌を取ろうか。
逡巡の末、卑怯ではあるがモノで誤魔化す事を思い付いて、だったら食い物の方が後腐れなくていいや、と思って購ってきたそれを見て、もう一度溜息をつく。
隣街まで納品に出掛けた帰りに寄った店。そういやそういう時季だった、と思い出したのは店に入って客の多さに吃驚した後で、今更何も買わずに店を出るのも気拙かったから、流されるままに買ってきてしまったのだけれど。
肚を括って自宅に戻ると、家に灯りは無かった。こんな時間に何処かへ出掛けたのだろうか。治安が良い街ではあるが、とはいえすぐに陽の落ちる時間だ、何かあっては困る。などと不安に思ったが、玄関に靴はあったから、少しホッとする。しかし家の中は不気味なほど静かだ。不審に思いながらキッチンに入ったところで、
「何だ、これ……」
思わず漏れた言葉を責められる筋合いは無い。……無い筈だ。
まるで竜巻でも発生したかのようなキッチンの惨状に、開いた口が塞がらない。
暫く茫然とそれらを眺めていたが、はっと我に返って足を踏み出すと、シンクの辺りに茶色の何かが見える。 よくよく検めると、それはどうやらショコラのようだった。恐る恐る指ですくって口に入れてみる。 ……苦い。つか、これ、焦げてるぞ?
どうやらショコラを作ろうとしたらしいが。
小さく溜息。本人は隠している積もりのようだが、ミオは料理が苦手なのだ。 一緒に暮らし始めた最初の頃、それでも何とか頑張ろうとしたようだったが、結局上手くいかず。 何だか訳の解らないモノを食べさせられて以来、ずっと料理は自分の仕事だった。本人も料理が苦手なことを隠せていると思って安心しているようだったのに、どういう心境の変化だろうか。
――否、
(お年頃……なんだよな)
頭を掻く。全く、世話の焼ける妹だ。
二階に上がり、ノックを続けて三回。
「うぉーい、ミーオー」
返事は無いが、気にせずドアを開けた。こういう時は気にしない方がいい。
果たして、我が凶暴な妹は窓台の上で膝を抱えていた。窓の外に貌を向けたまま、振り返りもしない。
「――ショコラティエになるには、道程が遠いな」
「……職人になんか、ならないもん」
洟声で返事はあった。
ちょっとほっとしたから、笑った。
「それもそうだけどな。……まぁ、取り敢えず食えたし、良しとしろよ」
「ッ、食べたのッ!?」
ミオは驚いた貌で振り返る。
「おう、なかなか個性的な味だったが。……好きなやつにあげるなら、少し考えた方がいいけどな」
言ったら、ウサギのぬいぐるみが飛んできた。オブラートに包んだ積もりだったが、包みきらなかったらしい。
「……別に感謝してる訳じゃ無い」
ぽつり、ミオが言った。
「うん?」
「ただ、私が食べたかっただけだもん」
ミオはぷいっと貌を背けて窓台から降りると、部屋を出て行こうとする。慌てて呼び止めた。
「ほら」
振り返った妹に小さな箱を見せた。
覗き込んだミオの表情がぱっと明るくなる。
「食べたかったんだろう?」
中には可愛らしくデコレーションされたショコラがふたつ。
喜ぶかなと思ったのに、ミオは何故かちょっとむっとした貌をした。……あれ?
「このまま、好きなやつにあげてもいいけど……」
その言葉にミオはキッと睨みつけてくる。
「バカっ、唐変木ッ」
新たな語彙が追加された。ああ、もう、この娘っ子は、一体どうしてくれよう。
いつものように怒鳴ろうと口を開きかけたら、
「半分あげるッ」
ミオは、そう言い捨てて、階下へ駆け下りて行った。
「え?」
今、なんて言った?
「……え、え、えぇ?」
――我が家のbitter girlは、時々甘い。