五十二、遠くに聞こえし神の声。
暗躍するドーリーへと視点が移ります。
エボニーがヴァイスに会うために向かったゴールドバレーの神殿の中で、一人の男がきょろきょろと視線を彷徨わせていた。男は自分にだけ聞こえている声に対して酷く驚き、声の主に対し恐れているようで、必死に両手で聖印を握りしめていた。
『ザンクト・フローリアン──ゴールドバレーの神官にして、「社の船頭」の一人。年齢は四十三。妻は無し。誠実に仕事をこなし、ぼちぼちな評価を得ている』
必死の早歩きで彼が向かう先は自らが信奉する神の像であり、口からは懺悔の言葉が知らず漏れ出ていた。
『教会に入って三十七年。六歳の誕生日に村にやってきた人買いに連れられて教会にやってきた貴方は、十二歳まで修道院で過ごし、二十歳まで教会の助祭として司祭を助け、ゴールドバレーの教会組織の一つ、「社の船頭」に加入。その後、堅実な仕事ぶりを見せる』
幼少の頃から共に過ごしてきた存在が居ないゴールドバレーにおいて、フローリアンの経歴を知っているものは少ない。ならば、この声はどこからそんな情報を得たのだろうか。フローリアンは恐怖を抑えて歩き続ける。
彼は靴音を立てない。何者かが追ってきていればすぐに気が付けるようにだ。
魔物が自身をたぶらかそうとしているのか。
それとも、神が罰を与えようとしているのか。
頭の中で考えが巡るが、答えなんて一つしかないのだ。
彼は知らずに、彼は知っている。そこにあって、そこにないもの。……神威が。聖性が、そうであると脳に直接警鐘を鳴らす。
目的地にたどり着いたフローリアンは転がるように像の前に両膝をつき、聖印を胸に当てた。
彼が見上げる「炎と旅路のドーリー」の像がつくる影が普段よりも陰影を強め、責める様な沈黙をもってして佇んでいるように感じられるのは、決して勘違いなどではない。
今この瞬間。神が像に懸っているのだ。
「おお、敬愛なる神よ。いと尊き標の主よ。愚蒙たる巡礼の徒たる我らの犯した罪を、……どうかその怒りを鎮めたもう。あなた様が炎にて地を焼き、天を焦がすならば、私は自らの魂を磔にして罪を償うでしょう」
あくまでも落ち着いた声、調子で言葉を紡ぐ彼の背には冷や汗が満ち、幾重にも重なった法衣を少しずつ濡らしていく。運動など殆どすることもなくなった体は無駄な脂肪こそないものの、しっかりと汗の道が出来上がっていて、実際の年齢よりも何歳も老け込んでいるように見えてしまう。
過度のストレスによって脈打つ心臓はいつもよりも五倍は速く、緊張から周囲の音を取り込むことを諦めた耳の裏を、気持ち悪く汗が滲む。しかして、フローリアンが対面している相手は耳が使えずとも、なんら困ることはない。
この瞬間の彼女の声は、跪く彼にだけ届くのだから。
『「杯と純潔のヴァイス」を知っていますね。そして、教会で星の民が彼女を救出したことも、貴方は知っていた。それだけではないでしょう。貴方はゴールドバレーで起きている事の根本に触れているはず。歴史を知り、連なる神を崇めていながら事ここに至るまで懺悔もない。地が磔刑の火柱で満ち、水が沸き、草が枯れ、旅路が困難なものになろうとも、貴方は進み続けなければならいでしょう』
「我が身の祈りは、我が魂の言葉は、あなた様の元へと必ずや届いているでしょう。巡礼の徒なればこそ、身を焦がし、天が私を拒もうとも、歩みを止めることなどありはしません」
フローリアンに対して、ドーリーは今まで身に秘めていた自らの想いを彼に対してぶつけていく。
日増しに弱くなっていくドーリーへの祈りの言葉や、ヴァイスが力を失ってしまったのは何故なのか。罪を償う気持ちを持っているのかどうか。
体を飛び出ていきそうなほどに体内を蠢くマグマのような強い感情を抑えるため、ドーリーがどれほど気を使っているのかを知る者はいない。死を覚悟しはじめているフローリアンにそこまで推し量れ、というのは無理な話で、同じく神であるヴァイスとはいまいち馬が合わない。
では残ったエボニーはどうかと言うと、話したところで何も解決してはくれないだろう。彼が抱えているものが多すぎるのもあれば、目的が違うのもある。
世界を愛している節は多くあるが、その分だけ嫌ってもいる。自らの理想の世界との違いに疲れている彼に何を吹き込んだとて、いい結果にはならないだろう。
対して、フローリアンはドーリーへと祈りをかかしたことはないと口を開く。ヴァイスに関しては何も言わなかったので知らないということはないが、それでも自分は旅路を往く、ドーリーの巡礼者である、と。
ドーリーとフローリアン、どちらが正しいのか。答えを既に彼女は分かっているが、これは必要な問答であり、ここからの会話をスムーズに進めるための前座に過ぎない。
まだ彼女の声が聞こえるのならば、彼は正しく、ドーリーを信仰しているのだから。
『貴方が奇跡を弧が前に。貴方が罪を照らし出し。貴方が言の音を持って審判を。……誓えますね』
「このザンクト・フローリアン。我が旅路の曇りを、この場で晴らすことを誓います」
これは彼の懺悔の始まりであり、神の復権の一幕。




