獣の胃袋の底
==ヴァルトール帝国・針林ダンジョン・最奥==
そこは一切の光が差し込まない穴の底。
静寂と暗闇だけが支配する虚無の世界。
その中でひときわ大きな鼓動の音と“美味そうな血”の匂いを放つ肉塊が一つ転がっていた。
「またゴミを落としてきよったか……人間どもめ」
黒い何か大きな影がのそりと立ち上がる。
声は一つ、足音は四つ。実際には暗闇の中で色も影も無いが、それは四本足を持つ“何か”なのだろう。
「む……悪くない匂いじゃ。いや待て……この匂いはまさか」
普段開くことのない青色が二つ、夜目の効く獣の瞳はその“美味そうな匂い”の発生源をとらえた。
「人間の少年……まだかろうじて生きておる。なるほど、これはなんとも懐かしい“お母様”の匂い……!」
暗闇の中、鼓動は一つ。
声は一つで足音は四つ。
その影は少年に触れようとして自分の姿が“黒き獣”であることを思い出す。
「いかんいかん、もう数百年も気にかけておらんかった。危うく本当に噛み殺すところじゃ」
暗闇の中、鼓動が二つ。
声は一つで足音は二つ。
「人の身体も所詮は獣、獣の神にかかればこんなものよ」
黒き獣だった“何か”は柔らかな手を少年の傷にあてがう。
するとたちまち血肉を垂れ流すだけの肉塊が人の姿を取り戻した。
「ほう、なかなかの容貌ではないか。ふむ……妾の慰み物になる権利をやるぞ小僧」
小さな身体で大きな態度、小さな顔に大きな目と耳、小さな口から大きな言葉。
それに応える声は無く、自称“獣の神”は頬を膨らませて可愛く憤慨する。
「おい小僧! いい加減起きぬと本当に食ってしまうぞ! い……いいのか! 早く返事をせよ!」
返事がない、少年は深い眠りについているようだ。
「へ……返事を。早く返事をしてくれぇ……お願いじゃ、頼むぅ」
やはり返事がない、少年は深い深い眠りについているようだ。
「寂しいよぅ……わらわ寂しい。久方ぶりに他者と語らえると思うたのに」
それでも返事はない。
獣の耳を持つ少女は少年の匂いをしきりに嗅いでは顔を覗く。
「もうよいっ! 勝手にはむはむするからな! 文句は言わせぬぞ!」
そう言うと少女は少年の腕にかぶりつく。
牙を立てないように気をつけながら、夢中でむしゃぶりつく。
「よい……よいぞ。はぁ……はぁ……お母様の匂い…………はぁ……はぁ」
彼女は上機嫌で少年の全身にくまなく舌を這わせる。
ある意味で形容し難いほど、淫美に欲望のままに。
そして、あまりにも興が乗り過ぎた獣神様は辛抱たまらず少年の喉元に思いきり食らいつく。
「つっ……!」
その激痛に目を覚ます少年。
それでもなお無我夢中の獣神様は気付かない。
ーー痛っ……くない? 夢? まだ真っ暗で何も見えないし、けど何かに絡みつかれて舐め回されてる……いったいどういう状況だ? 僕、何をしていたんだっけ?
少年、ニア・グレイスは現状とこれまでのことを思い返す。
ーー確か……そう、針林ダンジョンの最深部で夜の見張りをしてた。それで……そうだ! 黒いフードの男と戦って……
しかしながら、そこまで思い出してもなお現状の説明がつかない。
ーー全身を拘束されてる。けど、動かそうと思えば動かせるな。上にまたがっているのは何かの動物?
身体を這う舌の感触、時折顔をかすめる柔らかな毛ざわりの耳、腕を掴む鋭い爪。
その何もかもが獣のそれであるがただ一つ、その存在は明らかに人語を使っている。
「はむはむ……くぅーん! お母様の匂い……すぅ……はぁ」
そしてそれは幼い少女の声である。
ニアは身体は委ねたままで、恐る恐る沈黙を破った。
「あ……あの」
「わっ! びっくりしたぁ! 起きてるなら起きてると早よ言わぬか!」
「すみ……ません?」
「お主が起きぬから勝手にはむはむさせてもらったぞ! 文句は無いな! むしろ礼なら言ってもよいぞ!」
「は……はぁ、ありがとうございます」
「よい心がけじゃ、気に入った。わらわのことはルウと呼べ! お主名は何と申す?」
日も差さない暗闇の中、顔も見えない少女と戸惑う少年の声だけが響く。
夢ではないことを確信した彼は名乗っていいものか少し迷ったが、なんとか状況を好転させるためその問いに答える。
「僕はニア……ニア・グレイスです」
「ニア・グレイスとな、ほう……なるほどどおりで。あやつの……フリージアの子孫か」
「母上を知っているんですか?」
「もちろんじゃ、数少ない友人の一人よ。あやつもまたお母様に愛され実に甘美な匂いであった……しかしその様子では代わりに約束を果たしに来たというわけではないのだな」
「約束……?」
「いや……いい、忘れろ。してニア坊や、フリージアは元気にしておるか?」
「母上は…………」
かつての聖女フリージア・グレイスと自らの苦い過去を振り返る。思い出したくない記憶が意識を現実に引き戻して、そこでようやく口車に乗せられていた自分と置かれた状況に気づく。
「いや、そんなことより僕は早くみんなのところへ戻らないと!」
「まぁそう急くな、もう少しここでゆっくりしていけ。我が魔力をたっぷり吸い込んだ強力な魔導具をいくつかやろう。ふむふむ、どれがよいかのぅ」
「仲間が大変なんです……助けに行かなきゃ!」
「ほう……戻って仲間を助ける? もう一度“死にに行く”の間違いではないのか?」
「それでも……何もせずに見過ごすなんて僕には出来ない!」
「身体は治してやったが、馬鹿は治らんようじゃの。して、どうやって仲間の元へ戻る? ここがどこなのか分からないわけではあるまいな?」
「あの巨大な竪穴の底……」
「いかにも」
少年が絶望に打ちひしがれている間、しばしの沈黙が流れる。
まずもって夜より深い闇の中。
周りの状況を確認することも出来なければ、話し相手の顔も自分の手足さえ視認することさえ叶わない。
嗅覚と聴覚、触覚だけが頼りの文字通り“お先真っ暗”な状態である。
「それでも、何とかして戻らなきゃいけないんです……守ると約束した人がいるんです。帰りを待ってくれている人も」
「お……女か。若いうちから色気づきおって! しかし女ならここにもおるぞ……! 少しくらいなら、わ……わらわの身体を好きにさせてやってもよい! 当然食料も用意する! だから全て忘れてここでわらわと語り合おうぞ!」
返事がない、少年の決意は固いようだ。
「くぅ……まだ折れぬか、ならば現実を直視させてやろう」
少女の指先が少年の瞳に触れる。
当然、反射的にまぶたは閉じるがそれもお構いなしで彼女はさらにニアの頭を抱き抱えて目玉を蹂躙し始めた。
「痛…………くないけど! や……やめ……!」
「これは特別サービスじゃ、そら目を開けてみい」
先ほど同様に不思議と痛みはない。
そして少年がゆっくり目開けると、世界がその姿を現す。
つり目と獣の耳が特徴的な幼い少女が一人、見渡す限りの岩壁。
当然ながら空も月も脱出の糸口も見えはしないが、真っ暗闇だった世界が薄暗い洞窟となっただけでも奇跡の所業と言えよう。
少年は改めて自分の姿を確認する。
衣服は血だらけ、ボロボロに引き裂かれてはいるが、身体は傷一つついていない。
「どうじゃ? 我が寵愛の一端をその身に受けた感想は? よく見えるじゃろ? 名付けて獣神の瞳」
「獣神……?」
「ああ、ちゃんと言っとらんかったか。わらわこそ、この獣のダンジョンを統べる神、獣神フェンリルなのじゃ」
神と呼ばれる存在が目に見える形で実在すること、目の前の少女がその神の一柱であるということ。
その全てがまるで信じられなかったが、暗闇の中で“見ている”ことそれ自体が全てを物語っていた。
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