とりあえず水
サバイバルで重要な事はいくつかある。先人の教えに倣って語るのなら先ずは水だ。人間の身体は殆どが水でできていて、脱水症状が命の危機へと直結する事は誰だって知っている。
幸い俺はペットボトルに三分の二程の安全に飲める水を持っている。ただ可能ならばこれはもう飲みたくはない。有事の際でも安全な飲料水がある安心感を手放したくないからだ。
森の中を歩いて水辺を探す。川や湧き水を見付けられる事が一番だが、雨なんかの溜まり水でもいい。もしくはサボテンの様に水を溜め込む性質のある植物から確保するのも一つの手段だ。
ただ異世界の植物について知識が無い以上は下手に手を出すのは悪手だろう。地球のサボテンだって毒性の有無を見分けなければならないのだから尚更だ。
俺は注意深く辺りを散策する。同時に乾いた木の枝や落ち葉なんかも拾っていく。備えあれば患いなしとは偉大な教えだと思う。
「それにしても何もいないな。安全に進めるのは助かるけど、逆に生き物の暮らせない森だって言うなら困るぞ」
森を歩き続けて長くはないが、未だ何の生物にも出会していない。獰猛な原生生物と遭遇する事を思えば幸運な事ではあろう。しかしサバイバルのできない森では本末転倒だ。
俺は僅かに過ぎった不安を頭を振って追い出す。ネガティブな思考は判断力を鈍らせる。生きるか死ぬかのサバイバルで優柔不断は命取りだ。こんな時こそ楽観主義を披露しなくてどうする。
「大丈夫だ、大丈夫! いくら森の中だからってそこら中に何かいる方がおかしい。野生動物を見付けるのは大変だからこそ、サバイバル動画の人達は巣穴とか痕跡を探して罠を張ってたんじゃないか」
元気に声を上げてみれば途端に自信が湧いてきた。自らを鼓舞して空を見上げる。どこまでも澄み渡った晴天に背を押されて俺は歩みを続ける。
「高台を目指そう。上流の方が水は安全そうだし、周りの様子も分かるかもしれない。たとえ遠くても町や村を見付けられたら俺の勝ちだ」
一つ一つ目標を設定して進む。迷いに足を引っ張られない様に堅実に道程を重ねる。それが特別なスキルを持たない俺にできる唯一だ。
緩やかな傾斜をひたすらに登っていく。朝から何も口にしていないせいで喉の渇きや空腹が酷い。手元には水も食料もある。だがこれは命綱だ、まだ手をつけるべきではない。
不幸中の幸いなのは天候が崩れる様子が無い事と、木々が直射日光を遮るおかげで暑くない事だろう。日射病になったら目も当てられない。体感温度が秋口のそれに近い事も幸運だ。神はいなくとも天が味方をしてくれている。
もし日本の秋に近い気候なら木の実なんかが取れるかもしれない。食欲のと言うくらい秋は自然の実りが豊かなのだ。異世界にも当てはまるかは分からないが期待くらいはしてもいいだろう。
どれくらい歩き続けただろうか、辺りを見渡しても水場も食料も見当たらない。代わり映えのしない光景だけが延々と続く。それでもただ黙々と進み続けるしかない。好き勝手に生い茂る草は随分と歩き辛く、徒らに体力を消耗するばかり。そんな成果のない探索に気力を削がれても止まる事は出来ない。
明け方からひたすらに歩き続けて棒の様になった足を機械的に動かす。立ち止ったらもう動けない、そんな予感がする。道中拾った枝を杖代わりに身体を支えてただ前だけを見て俺は無心で進む。
キーンと響く耳鳴りが周囲の音を遠ざけた。真上から降り注ぐ太陽の光が眩しくてたまらない。ひっきりなしに鳴き声をあげる腹の虫が煩わしい。頭が痛むのは眉間に皺を寄せているせいか。
水が飲みたい。だが今の俺が手をつければ全て飲み干してしまうだろう。このタイミングで命綱を一つ手放すなんて馬鹿じゃないか。
――違う、冷静になれ。動けなくなったら水を探すどころじゃない。落ち着いて、一口だけ口に含むんだ。
グルグルと回る思考は本能に従えと命じてくる。俺は立ち止まると震える手でペットボトルを取り出した。キラキラと太陽光を反射させる水の輝きに喉が鳴る。生唾を飲み込んで俺は躊躇いがちにボトルキャップに手を掛けた。
ゆっくりと傾けられたペットボトルから透明な水が落ちようとしている。命の水だ――浴びるように飲み干したい。ギラギラと目を血走らせて犬の様に舌を伸ばして水を求める。
俺はペットボトルに蓋をした。喉は渇いて仕方ない。でも本気で生き残りたいならきっとまだ手をつけてはダメなのだ。耐える事も必要だと俺は必死に言い聞かせる。
重い足を持ち上げて歩みを再開する。少し傾斜の増した道なき道を進む。杖を片手に木々にも手を掛けて、身体を支えながら歩いていると遠くに岩肌が見えた。
「崖……もしかしたら……」
真っ直ぐに目の前の崖を目指す。自生する草を踏み付けていれば思わず足を滑らせた。ズルリとしたその感覚に笑みが溢れる。
何度か地面に足を取られながら崖に辿り着く。そこには何もない。だが俺には確信があった。喉の渇きも空腹も、疲れさえ忘れて俺は足元を睨みながら崖沿いに歩く。
ザァザァと静けさに混じって音がした。わずかに泥濘んだ地面のその先から聞こえてくる。青々とした草木の向こうで、俺はようやくそれを見付けた。
「湧き水だ……!」
濁りのない透明な湧き水が崖の岩間から吹き出して、勢いのままに滝は川を作って下流へと伸びている。辺りの地面が柔らかくなっていたのは飛び散った湧き水が染み込んでいたからだろう。
俺は良くないと分かっていながらも湧き水が作る川へと直接口をつけた。冷たい水が喉を通って渇いた身体中へと染み渡る。それは今まで口にした何よりも美味しく感じた。
九死に一生を得るとはこんな気持ちなのかもしれない。数時間ぶりに感じる生きた心地に俺は声を上げて笑った。
「日が暮れる前に水源を確保できてよかった」
どこかで聞いた話だが、人間水を失えば死に至るが、逆に水さえあれば食料が無くとも数日は生きていけるらしい。
脱水という目下の危機を脱した俺は安堵感から泥濘んだ地面に腰を降ろした。その結果は言わずもがなだろう。尻に伝わる気持ちの悪さに俺は堪らずまた笑った。