異世界でした
目が覚めると森にいた。どこを見ても木と草ばかり。現代日本とは思えない、それは酷く鬱蒼とした森だった。
俺が暮らしていた街は都会と呼ぶのは憚られるが、しかし田舎というほど廃れてはいない。大人になったらこんな街は捨ててやる、なんて思う事もない様な、それなりで普通の街だ。少なくとも目の前に広がる自然豊かな光景が日常的にある場所ではない。
だがぐるりと辺りを見渡しても森が広がっているばかり。言い表せない妙な違和感もある。そもそも何故こんな場所にと思う事が先なのだろうが、人間混乱がすぎると一周回って落ち着くらしい。或いは現実逃避をしているのか。
「落ち着いて、何があったか思い出さないと」
敢えて口に出して話す事で俺は自分にやるべき事を言い聞かせる。焦った所で何も進まない。現状把握が必要だ。落ち着け、落ち着け、と繰り返し言葉にする。
俺の名前は吉田幸希、高校二年生。血液型はA型、誕生日は九月九日の乙女座。学校が嫌いで、クラスメートが嫌いで――と自分を思い出そうとしているのに、気が付けば嫌な物ばかりが思い浮かぶ、それだけの人間だ。気の滅入りそうな思考だが、それでも俺に関する記憶はちゃんとあるようで安心する。
次は何があったかだが、いつも通り学校に行った所は覚えている。中庭に植えられた金木犀が花を咲かせたと、女子生徒が騒いでいたのを教室の隅で聞いた覚えがある。そのくせ授業の内容は朧気で思い出せないのは興味が無いからか。そしていつもの通りに下校して、記憶が途切れた。
「帰り道で何かがあった、にしても何があるって言うんだ」
また周囲を見渡す。やはり見慣れない森だ。俺の暮らす街が田舎で、俺の歳も小学生くらいなら、森へ探検に出て迷子なんて考えたかもしれない。だが高校生にもなってそんな事はしない。アウトドアな趣味に興味はあっても、今の俺に実行するだけの力は無かった。せいぜい雑誌や動画サイトでキャンプやサバイバルを見て夢を膨らませる程度だ。
だがやりたい事はある。月明かりの下、焚き火で沸かしたコーヒーをゆっくりと味わうこと。買っておいた高価なコーヒー豆を、これでもかと惜しまず使って、その苦さを楽しむのだ。笑えるくらいに格好付けだが、せっかくなら無精髭なんかも生やしてワイルドな男を演じてみたい。そして少し日に焼けた肌で、何でもないように笑うのだ。
閑話休題、早々に妄想へと逃げては意味がない。
うんうんと頭を捻って記憶を揺さぶる。学校を出た俺は小腹を満たす為にコンビニに寄った。ホットスナックとおやつ代わりのスナック菓子を二袋、それと飲み物を一つ買ってそのまま帰路へ。特別な事はない帰り道を記憶の中の自分と共に歩く。
その光景は唐突に思い出された。耳を劈く甲高いスキール音と叫ぶ人の声。視界を覆い尽くす様に眼前へと迫った物の正体は、見覚えがあるというのに現実味がなかった。まるでスローモーションの様に再生された記憶は恐怖と絶望を俺に叩き付ける。
「……轢かれたんだ、車に」
言葉にすれば単純だ。しかし今の状況も相まって得体の知れない気味の悪さが身体を震えさせる。
記憶の通りなら俺は交通事故に遭った。それもかなりの勢いでだ。だが俺の身体は五体満足でかすり傷一つ見当たらない。勢いの乗った車――サイズから想像するに大型のトラックだろうか――に轢かれた人間の状態ではない。天文学的な確率の奇跡が起きても、無事で済むのは不可能だろう。
俺は自身の置かれた状況を理解した。俺は死んだのだ。おそらくここは死後の世界、天国や地獄と呼ばれる場所。ただおどろおどろしい雰囲気が無いので天国の方だと思いたい。尤も自分が天国に行くような善人かと問われても、もう頷く事はできないのだが。
もしくは、と考えた可能性はあまりにも馬鹿らしい。ただそうならこの先に少しの期待が持てる。何にとは言い難いが、強いて言うなら夢だろうか。
「でも、そうだな。うん、現実じゃないと思うとこの妙な違和感も納得だ」
俺は独り言ちて再び周囲を観察する。馬鹿らしいと思いつつももう一つの可能性に期待して自分以外の気配を探る。とはいえ一介の高校生に高度な技術などある筈もなく、近くに何かいないかとせいぜい耳を澄ます程度だ。
しばらくジッと耳を澄ましていたが、聞こえるのは風が草木を揺らす音だけだった。死んだ俺を迎えに天使や鬼が来ないという事は天国や地獄ではないのかもしれない。沸々と期待が湧いている。
バサリと遠くで鳥の羽ばたきに似た音が聞こえた。俺は弾かれた様に音のした方向を向く。木々に囲まれて遠くは見えないが、空なら僅かに覗える。すると雲一つ無い青々とした空を翔ける何かが見えた。
「ああ、あれは――」
澄み渡る空を鳥の様に自由に飛ぶ姿は、しかし俺の知るどの動物とも違う。蜥蜴にも似たゴツゴツと赤黒い肌と、その体長をも優に超える巨大な翼を背負った生き物。それはおとぎ話に出てくるドラゴンと呼ぶに相応しい存在だった。
「俺は異世界に転生したんだ……!」
トラックに轢かれて異世界転生なんてフィクションだけの話だと思っていた。だがどこかの詩人が言った様に、事実は小説より奇なりとは正しくだった。俺は絶望から一転して、この身に降ってきた幸運に天を仰いで喜んだ。
異世界転生、それはライトノベルやネット小説で扱われる事の多い題材の一つである。読んで字の如く異世界へと生まれ変わる事を指す。転生の種類は様々だが、共通する点として予期せぬ死により引き起こされる事や、神など超自然的存在の介入などが挙げられる。
俺はあまり活字を好む質ではないから実際に読んだ事は殆ど無い。だが世に氾濫する転生小説を揶揄する様に語られるテンプレートの数々は知っていた。トラックに轢かれるという出来事も、いわゆる転生物のテンプレートの一つだった。
そして俺がこの異世界転生に歓喜した理由は、その共通点たるテンプレートにある。もちろん死んだ事ではない、超自然的存在の介入の方だ。
「チートスキルで無双して異世界女子とハーレムを築ける」
誰よりも強い力を有する事や、複数の女性から好意的な感情を向けられる自分中心のコミュニティの構築、それは俗物的ではあるが男として憧れるものがある。そも生物としての本能で、自分の種を残したいのが男の性なのだから当然だ。異世界転生はそれを超自然的存在の力で、ほぼ無条件に獲得させてもらえるものだと俺は聞いていた。
「しかしまあ一向に現れる気配がないな」
学校の教科書くらいでしか長文を読んでこなかった俺は、異世界転生のテンプレートは知っていても具体的な内容は知らない。イメージとしては、間違って死なせてしまったからお詫びに力を授けてくれる、という感じだ。もしくは初めから勇者の類として偉い人達から呼び出されるか。後者は森で目覚めたから違うだろう。
だが目を覚してからしばらく経つが、超自然的存在どころか、この異世界について案内する者すら現れない。唯一見た生命体は空を飛んでいったドラゴンだけだ。
まだ日は高く見えるが何もせず待っていては夜になってしまう。もしかすると森の中という事もあって迷っているのかもしれないと、我ながら頭の悪い予想と共に辺りの探索に出掛ける事にする。
探索という選択肢が正しかった事はすぐに分かった。俺が目を覚した場所からそう離れていない場所で見付けた物がそう教えてくれた。そこにあったのは俺と共にこの異世界へと運ばれてきたと思しき、軽い学生鞄とコンビニのビニール袋だった。
「荷物も一緒に転生するものなのか。まあそうじゃなきゃ今頃俺は全裸か」
現代の物を持ち込んで無双する小説もあると聞くから、きっとおかしな話では無いのだろう。なにより荷物があれば色々と役に立つ。中身の殆ど入っていない学生鞄が何の役に立つのかは分からないが、無いよりはきっとマシな筈だ。少なくともコンビニ袋に入ったスナック菓子は俺の腹を満たしてくれるのだから。
しかしこれでは生まれ変わりというより、テレポートの様だ。だとすれば異世界転生と呼ぶのはおかしいのだろうが、あいにくとこの手の話題に明るくない俺は他の呼び方を知らない。それにわざわざ思い出すのも面倒だ。気持ちの上では生まれ変わりと大差無く、何より誰に聞かせるでもないのだから、細かい事は気にしても意味無いだろう。
俺は一息吐くと腰を下ろして鞄を開く。異世界で役に立つ何かがないかを探す為だ。とは言え超自然的存在からチートスキルを貰うまでの間を凌げさえすれば良いのだから期待のハードルは低い。今日中には声が掛かるはずだと楽観的なのは、抜け切らない現実逃避の産物か。
鞄の中身を検めると我ながらやる気のない学生だと自嘲めいた声が出る。地面に並べられた荷物は真面目に勉強をしに学校へ通っている様には思えない。
「財布とスマホ、モバイルバッテリー、あとは空の弁当箱に……」
本来なら娯楽だけではなく教科書やノートが詰まっていそうなものだが、あいにくとそんな事はない。勉強の道具は明日の予習と、提出期限の迫った課題を解く為の最低限しか入っていなかった。
俺はスマートフォンを開く。分かってはいたが電波は届いていない。オフラインで使えるアプリは起動したので、スマホ自体は壊れてはいない様で安心する。ただ充電が心許無いので電源はすぐに落としてしまう事にした。
ろくに中身の入っていない学生鞄はすぐに空になった。暇潰しには使えても、異世界で無双できそうな物が無かった事は残念だ。こんな事なら便利な物でも持ち歩いておけば良かったと思いつつも、現代日本にいながら異世界転生する事を前提に荷物を選ぶなんて流石に頭がおかしいと気付いて考えるのを止める。
さてどうするかと腕を組んで一拍、腹の虫が盛大な鳴き声をあげた。思い返せばこの異世界に来て何も口にしていない。今までは非現実な出来事に混乱していて何も感じなかったのだろうが、幾ばくかの安心感が人間的な欲求を思い出させた様だ。
元の世界で買っておいたペットボトルの水を一気に三分の一程飲んで、一袋のスナック菓子を空にする。三大欲求の一つが満たされた事で別の欲も首を擡げた。緊張感の無い欠伸を漏らして俺はその場で横になる。
「俺を見付けたら起こしてくれよな神様」
どこにいるかも分からない超自然的存在へと声を掛けた俺は欲望の赴くままに瞼を閉じる。さながらピクニックでもしている様な呑気が招く事象を、この時の俺はまだ知らないでいた。
二度目の目覚めは暗闇の中だった。夜色は生い茂った木々に月明かりを遮られて深く濃い。手元さえ碌に見せない黒は、灯りで溢れた現代に慣れた俺に本能的な恐怖を思い出させた。
震える手で必死に鞄を探す。目当てはスマートフォンだ。暗闇に置き去りの俺は少しでも光が欲しかった。
ガサガサと草の踏み付けられる音が聞こえた。遠くから何かの鳴き声も聞こえる。この森にはドラゴンがいた。他にも生き物がいたっておかしくないとすぐに気付く。
辺りを彷徨いているだろう何かに気付かれない様に息を潜める。何かの正体が小さな草食動物か俺に友好的な存在である事をひたすらに願う。
冷たい風が頬を撫でる。木々の隙間からゴウゴウと唸りが聞こえる。前から、後ろから、左右から。音は幾重にも反響して囲まれている様な気にさせた。
俺はこの森に何が存在しているかを知らない。風に吹かれて枝が転がっているだけかもしれない、木々のうねりが声に聞こえているだけかもしれない。本当は何もいないのに、俺が勝手に怖がっているだけかもしれない。そう無理やりにでも安心させようと妄想を働かせる。
なのに思考は俺の思いとは裏腹に悪い方へと進んでいく。俺は確かに空を飛ぶドラゴンを見た。他に生き物がいると考えるのが普通じゃないか。それも動物に限らない。異世界なのだからモンスターがいたっておかしくない。そんな考えがひっきりなしに浮かんでくる。
次第に目が暗闇に慣れていき周囲を見渡す事ができる様になった。だが辺りを見た所で何も変わらない。相変わらず俺は正体も分からない何かに襲われる恐怖に苛まれる事しかできずにいる。
また音が聞こえる。まだ音が聞こえる。ガタガタと震える身体を抱き締めて抑えても、その両腕さえ震えているのだから意味がない。思わず叫び声をあげそうになる唇を俺は鉄錆を感じる程に強く噛んだ。
神経を擦り減らせる夜は、白みだした空と共にようやく終わりを告げてくれた。一睡もできず、ただ恐怖に震えるだけの夜は酷く長く続いた。実際はどうだったのかは分からない。ただ俺にとっては永遠にも思えるくらいに長い長い夜だった。
夜になる前に少しは眠ったというのに身体の疲労感はそれ以前より酷い。同時に恐怖から摩耗した精神はネガティブな考えを俺に囁きかけた。
「神様は、ほんとに来るのか……?」
異世界転生者は超自然的存在から力を与えられるものだと、勝手に思い込んでいるだけなんじゃないのか。そもアレはフィクションで、創作で、作り話じゃないか。なぜ当たり前の様に自分も得られる側の人間だと思っていられたのか。
俺は荷物をまとめるとふらつく足で歩き出す。存在するかも分からない何かを待って恐怖に震えるなんて真っ平だ。あんな夜を繰り返したら気が狂って死んでしまう。
幸い水と食料は少しだがある。見付けてすぐに消費したのは思い返せば短絡的だったが、今更悔やんだ所で返ってくる物でもない。大事なのはこれからだ。
当面の目標として俺はサバイバルをする事に決める。元からそういった事は好きで知識だけは――主な情報源が投稿サイトの動画ばかりというのは心許無いが――少なからずあるのだから何とかなるだろう。
本音を言えばすぐに人里を探したいが、土地勘のない場所で宛もなく歩いていては遭難するだけだ。特にここは見ただけで分かる深い森。ドラゴンも生息していた以上は日常的に人が入る森ではないと考えた方が妥当だろう。
我ながら単純で切り替えの早い頭だと思う。だが恐怖とは時に人を強く奮い立たせる。生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ、やれるだけの事はやらなくてはならない。なにより一度死を味わった身、二度目など経験したくはない。
「サバイバルの基本を思い出させ。俺ならやれる、やってみせる!」
胸の内に巣食う恐怖を追い払う様に両手で強く頬を叩く。ヒリヒリと痛む肌に思わず引き攣った様な笑みが溢れた。
サバイバルには憧れがあった。遭難した時のプランだって考えた事もある。たとえそれが空想めいた突飛なプランでも、異世界で役に立たなくても、それでも立ち止まらなければどうとでもなる。
下手の考え休むに似たりとはよく言うが、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。今の俺に必要な考え方はきっと後者だ。兎にも角にも生存を優先に何でもやる事が重要だ。
かくして俺の人生初のサバイバルは異世界で幕を開けたのだった。
R15は念の為です。そんなつもりはありません。