美しい婚約者
私の婚約者はとても美しい。
褐色の肌に、肩まで落ちるブルネット。
長い睫毛が彩るのは、蜂蜜のような琥珀色。
本を持つ爪先までもが、光が弾けるように輝き、薄い唇から零れる音は甘く痺れるようなテノール。
何時間見詰めても、何日過ごしても飽きないような、神様の最高傑作だ。
「あ?何見てんだよ」
まあ、出てくる言葉は大概において最悪なんだけど。
「綺麗な顔がそこにあれば見るわよ。悪い」
「開き直るな」
くっくと肩をゆすって笑う顔の、ああ、なんて罪な事!
黙していれば彫像のように美しく、語らえば夜のように色っぽく、力を抜いて笑う顔は無邪気で愛らしいのだから、こちらの心臓が持つはずがない。
私はそろそろ天に召されるのでは?と内心思っている。
あ、もしかしたらこの人実は天のお迎えかしら?
「私、今死んでも悔いはないわ…!」
「あ?」
むしろこんな神の愛を一心に注がれたような男の婚約者という、絶景ポイントを賜っている幸福と共に今死にたい。
夢が覚めたらもう生きていけない。
「馬鹿だなお前」
「なんだと」
世にも美しき婚約者様、エヴァンス・フォレイスはニヤリと笑った。
「俺は年をとっても美しいと思わないか?」
「は?美しいに決まっとるが??」
「でも死んだら見れねぇな?」
盲 点 … !
ニヤリと笑うこのシニカルな笑みに、大人の渋みと色気が、足された姿…だぞ……?
うん年後のエヴァンスなんて、そりゃあ勿論、とんでもなく美しいに決まっている。
というか、エヴァンスが美貌をそのまま受け継いだレイラ夫人は、世の男共だけではなく女性の心も掴んで離さない社交界のマドンナ様である。
小娘など到底足下に及ばない壮絶な色気に耐えられるのは、最愛の夫ルーカス様のみ。
そのルーカス様がこれまた渋い超ダンディーなおじさまなのである。
そのご夫婦の血を色濃く受け継いだエヴァンスが、例えば老眼鏡などをこう、つけたりなんかしてな?
それを、こう、外しながら、今みたいに上目遣いで、にやって笑ったりしたら…?
「し、死ねない…!!!!!!」
「そりゃ良かった」
鼻を押さえて身体を丸めると、ぽいと黒いハンカチが投げられた。
お高いソファに血の染みを付けては大変だ。
私は慌てて鼻血を押さえた。
「エヴァンス、黒いハンカチ多いよね」
「染みが目立たねぇだろ?」
「えー、それ私の鼻血?それとも職務中の返り血?」
「どっちも」
どっちもだった。
モンスターの返り血と変態の鼻血同列だった。ウケる。
この王都で騎士団長をなさるルーカス様と同じく、エヴァンスも一流の剣の使い手だ。一度剣を握ると、モンスターが全滅するまで、決してその剣を鞘にしまわない獰猛な獅子として有名なのだとか。
あいにく、私は戦場を駆ける獅子様を拝見したことが無いので噂しか知らないが。
誠に残念である。
「戦場のエヴァンスもきっと綺麗ね」
「…んな生温い場所じゃねぇよ」
ふん、とエヴァンスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
彼がそこで命のやり取りをしている事を、本当は私が心底心配している事を、エヴァンスは知っている。
だからこれは怒っているのではなくて、多分、
「…照れてるの?」
「……」
ピタ、とページを捲ろうとしていた手が止まった。
長い指先が静止したそれが、彼の動揺を物語っているようで私はにたりとしてしまう。
私の100倍、いや万倍にもわたる誉め言葉を贈られ続けてきた、女子の憧れの的エヴァンス・フォレイスともあろう者が、たかだか一介の子爵令嬢ごときにちょーっと褒められ照れている!
いや私も偉くなったもんだな???!と、調子に乗ったのはそこまでだった。
「へえ?」
パタン、とエヴァンスは本を閉じた。
すう、と横目で見てくるその琥珀は、どこまでも鋭く、果てしなくエロい。
あ、こらやらかしたな、という後悔と、ああーまじでイケメンだな、という恍惚で私の情緒はぐっちゃぐちゃなわけですが。
ぎし、とソファが音を立てれば鼻を押さえるしかなかった。
「どっちが?」
私に覆いかぶさるように、身体を寄せる、エヴァンスの、威力…!
長い睫毛の本数まで数えられるような距離なのに、戦場とは銭湯の間違いですか?ってくらいお肌はツルツルで傷もシミも無くて、あ、これこの距離で見られてる私の顔面の方がやばいのでは????という混乱すらわいて、
「シアン」
「~~~~~~!!!」
耳元で、名前を呼ばれてはもう駄目だった。
ぼすりと力が抜け、ソファに身体が横たわる。
エヴァンスは、おや、という風に瞬きし、それからペロリと唇を舐めた。
「お誘いか?」
いやそんなわけがないし、これ以上は供給過多なのでご勘弁願いたいのだが、エヴァンスはとても楽しそうに指を伸ばしてくる。
「ひっ」
顔にかかる髪をゆっくりと払われて、悲鳴が出た。
色気もクソも無い己に絶望するが、恐ろしい事にエヴァンスは親同士が決めたこの婚約を少しも嫌がっていない。どころか、好意的なのだ。
そんなわけで、エヴァンスは情けない悲鳴に嫌な顔を一つせず、むしろ楽しそうに目を細めた。
相手はエヴァンスに負けず劣らず口が悪くて、欲望に忠実な変態の私なのに。
「え、エヴァンスってほんとに趣味悪いよ大丈夫?」
「それ以外完璧だからいんじゃねぇの?」
「いや、あんたは性格も口も悪いよ。ていうか顔と剣術の才能と頭脳しか良いとこないよ。あ、あと家柄」
「犯すぞ」
「ほらー!そういうとこー!!昨日もやらかしたってルーカス様に聞いたわよ」
貴族のご令嬢に言うにはあまりにあまりな台詞だし、ご令息が口にしちゃあならん台詞だと思うのだけれど。当の本人はちっとも悪びれる様子が無い。
こんなだから、ついつい我慢ができず、売られた喧嘩は口喧嘩も片っ端から買ってしまうのだ。
おかげで彼を慕う人間も多いが、同じくらいに殺意を持っている人間も多いらしい。
国を守る人間が敵を増やしてどうすんだろう。
あれ、私こいつが婚約者で大丈夫かな?
「ルシアーナ」
「ひ、」
す、と首筋を撫でられた。
ページを捲る、綺麗で、剣だこのある指が、掌が、する、と首元からたどり、頬を撫でる。
自分の選択を憂いていた私の思考など、一瞬で蹴散らしたエヴァンスは、形の良い唇をすいと寄せてくる。
「ひいっ」
ちゅ、とわざとらしいリップ音を立てやがりながら、額へ、目元へ、頬へ、耳へ、そして唇へ軽いキスをしながら、愛称ではなく、丁寧にルシアーナ、と何度も私の名を呼びやがる。
やべえ、殺しにきてる。
気付けば私の顔は、エヴァンスの熱い掌に挟まれていた。
エヴァンスの長い黒髪が、雨のように私に降り注いでる。
その向こうで三日月みたいに、甘く細められる琥珀色から、私は目が離せない。
こんな距離で見られたくない。
なのに、もっと近くで、その美貌を見たい。
エヴァンスは、まるで思考を読み取ったみたいに、私の大好きな顔をよせる。
こつん、と額がぶつかる感触に、背筋が震えた。
「馬鹿なシアン。俺の前で他の男の名を出すなんてなあ」
性格をそっくりそのまま表した、意地悪に歪められた顔は凶悪で狂暴なのに、恐ろしいくらいに美しい。
こんなにも楽しそうで最低なくらいにえっろい顔はきっと、婚約者である私だけが拝めるのだ。
脳内で歓喜の白旗を振りながら、私はそろそろと手を伸ばした。
「…あんたの父親よ」
「おまえと縁をつないだ敬愛する我が父上であったとしても、お前が呼んでいいのは俺の名前だけだろ」
「いや、どっちが馬鹿よ」
んなこたあ、できるわけがない。
エヴァンスだって、本気で言っているわけではないんだろう。くつりと笑って、頬に寄せた私の手に擦り寄った。
剥げるほど可愛い。
「どうしようエヴァンス、剥げそう」
「いいヅラ探してやるよ」
ちゅ、と私の掌にまで口付けて、エヴァンスはそのまま首を傾げた。
吐きそうなくらい、あざと可愛い。
「俺の顔が好き?」
「吐くほど好き」
なんだそれ、と屈託なく笑う顔が、私は世界で一番好きだ。
「エヴァンス」
たまらなくなって、私は名前を呼ぶ。
多分、人生で一番、口にしている名前。
「私の事、好き?」
エヴァンスとこんなことになる前の私が聞けば、頭おかしいんじゃないのかと詰め寄っただろうけど、私という変態は今ここに一人きり。
「さあ?」
意地悪く笑う美しい婚約者は、私一人きりのものなのだ。