言葉にしないさようなら
なんだか瞼が重たい。いつもこんなに目覚めが悪いことなんてないのに、目を開けるのがすごく億劫。
それでも無理やり持ち上げた瞼の隙間から光が差し込んでくる。
ぼんやりとした視界に映るのは、何?
「奥様ぁ!!」
その声は……ハンナ?
少しずつ鮮明なっていく輪郭、ハンナの泣き顔が少しずつはっきりとしてくる。ハンナの他にも使用人たちが私を囲むように立っていた。
「ごめんなさい! ごめんなさい、奥様!! 私が、私の、せいでぇ……っ!!」
「申し訳ございません、奥様……。私がもう少し奴を捕らえるのが早ければ……」
ハンナが泣いている。騎士が頭を下げている。
「エルネスト様にこの家を頼まれていたのに情けない……」
騎士のうちの一人が呟いた声が耳に届いた。エルネスト。その名前だけが妙に反響したように聞こえる。
「私、どのくらい……? エルネストは?」
部屋の窓から見える空の色は深い青色。夜かしら、と視線をそこに向けたまま口を開く。なんでもない、ほんの些細なことを尋ねるように、静かな静かな口調で。
「一日半ほど。旦那様にも伝令を飛ばしたのですが……」
答えてくれた家令は随分と言いづらそうだった。
きっと彼の反応は薄かったのでしょうね。今はそれどころじゃないのだもの。
「そう。あちらも忙しいのでしょうね。仕方ないわ」
「あちらも襲撃事件があったようで、そちらの処理と事後処理でしばらく帰れないと……。奥様の命に別状がないことを確認されてからは医師を手配するように、とだけ……」
「そう」
それを聞いて腹部の痛みを思い出した。軽く手を乗せれば包帯か何かで固定されているような感覚がある。あまり深くはないと思うけど。ああ、でもせめてと、美容には気をつけていたのよね。彼に少しくらいは見てもらえるように。たまに視界に入るときに少しでも綺麗な姿を、と。台無しね。
「私の傷跡は残る?」
朝から私を見てくれたお医者様が今も横にいたから聞いてみる。そういえば、と朝の診断内容も思い出した。忘れてしまっていた方が、よかったのかもしれない。
「深くはありませんから、治るのは早いと思われますが、傷跡の方はなんとも……。毎日手をかければ綺麗になるかもしれませんが、ここで断言して差し上げることはできかねます」
申し訳ございません、と告げるお医者様。
予想はしていたから、あまり衝撃的ではない。
もう一つ、予想していることもある。聞きたくないけど、聞かなければいけないこと。
「お腹の……子は……」
以前と何も変わらない、やっぱり何も感じないそこに手を置いて、今度こそお医者様を見る。お医者様は何も言わなくて、代わりに無言で首を横に振った。
「そう……。彼に、告げることもできなかったけど、でも言う事ができなくて、むしろよかったわね」
使用人達が口を開く前に、ハンナが口を開く前に、先に笑顔を作った。
「もう少し、寝ていたいの」
そういえば、みんな何も言わずに、私の眠る支度をして部屋を出て行った。優しい香りの香を炊いてくれたから、考えこむ時間もなく眠りに落ちていけた。
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事件が起きてすぐ、王宮での話も伝わってきた。
王女様の誕生日の前後、いつもよりも王宮に入るのが簡単になる。警備が緩くなるわけではないけれど、中に入ること自体は許可される。警戒体制は整えていても、王宮には簡単に入れてしまうから、それに乗じて王女様が狙われたらしい。
幸いその犯人はすぐに護衛騎士に捕らえられて、王女様にも、他の王族の方にも怪我はなかったけれど、犯人の身辺調査、処罰の決定、それから直接狙われた王女様のケア、と今も騒がしく落ち着かない状況だと。
王族には勝てないもの。私が、王女様に勝てるはずもない。容姿も身分も。だから、私を守ってくれないのだって、怪我をした私を心配して帰ってくれないのだって、少しも顔を見せてくれないのだって、期待なんてしてはいけないこと。
彼のことも王女様のことも恨むのは筋違い。だって全てを承知して、それでも彼の隣に立つことを選んだのはこの私だもの。
それに、恨んでなんていない。やせ我慢なんかじゃなくて……。
でも、いままでこんなに暗い感情を覚えたことはなかった。嫉妬でもなくて、恨みでもなくて、ポッカリと大きな穴が空いたみたいな、空虚な感情。
きっと王女様の周りが落ち着いたら彼は帰ってきて、私の傷を、心を心配してくれるの。彼は不器用だから、王女様と私のこと、同時には考えられなくて同時には処理できない。仕事ならいくつものことを同時に抱え込めるのに、本当に不器用。
王女様の次に、彼は私のことを見てくれるのだから、少しだけ、少しだけ、待てばいいの。もう少しだけ待てればいいの。
それなのに、頬をつたうのはどうしてか涙で、ただ生理的に流れているだけのそれを止めることもできなくて。
泣くのってこんなに疲れて胸が痛くなることだったのね。忘れていたわ。
待っても待っても、彼は帰ってこなかった。随分と、お仕事が立て込んでいるらしい。使用人たちは毎日毎日私のところに代わる代わるやってきては私のことを励ましてくれた。たくさんたくさん楽しくなることをしてくれたのに、どうしてか心が晴れなくて、何かを私は無くしてしまったみたい。
だからね、きっと。彼が家にいないのなんて、いつものことだったのに。帰ってこなくてもいつまでだってまてたのに。
たった数日、まだ一週間と少ししか経っていないのに、私はもう待てないと思ってしまった。
「私、実家に帰ろうと思うの。彼に、伝えてもらえる?」
何度かこの家と王宮を行き来している家令を捕まえて、私は手紙を渡した。挨拶も、彼のことを心配する文面もない、飾り気のないシンプルな手紙。許可をいただけるのなら実家に帰らせてください。それだけを書いた手紙。
こんな手紙を書くのは初めて。文字を習い始めたばかりの幼い頃だってもう少しまともな文章を書いていたのに。
使用人達は揃って何か言いたそうだったけど、誰も何も言わなかった。そんなに、泣きそうな顔はしないで。本当に少しだけ、疲れてしまっただけなの。それにこんな傷のついた体では彼の前に立てないのよ。
優秀な使用人達は彼のこともよく理解してくれているから、家令が持ってくる彼の返事を確認する前に、私が実家に帰る支度を進めてくれた。
窓の外をじっと見つめていれば、青い空が蜂蜜色に染まっていくのはすぐだった。やがて夕闇に染まる世界の中、家令が持って帰ってきた彼からの手紙はやっぱり事務的でシンプルな、許可だった。
わかった。気をつけて。
彼らしい、迷いの無い字で書かれたその手紙を開いて目を通した後は、自室の机の引き出しに仕舞い込んだ。この手紙を持っては行かない。きっと返事も必要としていないでしょう。そういう駆け引き的なやりとりは彼が好まないことはよく知っているもの。
忙しいこんな時に余計な時間を取らせるのも嫌だから。
「元気でね、エルネスト」
さよなら、私に宿ってくれた名前もない、可愛い子。
しばらくは何も考えずにゆっくりしたい。
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「あなたまで着いてくることはなかったのよ? 王都からは少し離れているし。本当によかったの?」
用意してもらった馬車の中は柔らかなクッションが敷き詰められていて、揺れも少ない。香りのいい紅茶と私の好きなお菓子をだっぷり用意してくれた空間の中、私は目の前に座る少女に何度もした確認をもう一度繰り返す。
正直屋敷に戻るには遅いくらい、かなりの距離を進んでしまっているんだけど、彼女が帰ると言ったのなら、すぐにでも引き返してもらうつもりでいた。
いた、のに、ハンナは問いかけた全てに勢いよく首を横に振った。
「私は奥様と一緒に! だって私奥様の、アリシア様の侍女なんですから!」
絶対に帰りませんからね! と拳を両手に作って断言するから、申し訳ないと思っているのに笑ってしまった。
「ありがとう、ハンナ。なら、あなたも休暇だと思って、一緒にゆっくりしましょう」
領地の実家に顔を出したら、そのままさらに離れたところにある別邸に身を寄せようと思っている。領地の屋敷と王都は馬を飛ばせば1日で往復できる距離だけど、別邸は数日かかる。この国の他に二つの隣国との国境に繋がる辺境。
穏やかだけど隣国との間を行き来する人間が多いから賑わっている良いところなのよ。大きな川が街の中に流れていて、緩やかな坂の上の方に大きすぎない別邸が建っているの。
久しぶりに行くから楽しみだわ。新しいお店がきっと増えていて、それでもきっと変わらない街並みが残っていて。それを考えると少しだけ心がかるくなった。それにハンナも付いてきてくれた。気持ち的には一人で傷心旅行、と思っていたんだけど、もっと穏やかに過ごせるわね。
「はい! アリシア様!」
ハンナはずっと私のことを奥様と呼んでいたのに、馬車に乗ってからは名前で呼んでくれ始めた。他の使用人達もだけど、薄々感じているものがあるかもしれない。
私は別にエルネストと離縁するつもりはないけど、でもいつ戻るかは決めていない。きっと彼はしばらく私の不在に目も向けないのだろうし、彼が望むのならば応じる気ではいるけれど。
朝屋敷を出て間で宿を途中で取りながら、普段よりゆっくりと進んだ馬車は数日後の昼過ぎあたりに懐かしい実家に着いた。一応手紙は出したけれど、手紙には詳しいことは何も書かなかった。ただ、少し体調が悪いから別邸をしばらく使いたいと、それだけを書いた。
子供ができたこと、賊に襲われて怪我をして、小さな命が流れてしまったこと、なんだか少しだけ疲れてしまったこと。それを話せば、お母様もお父様も、兄夫婦も、静かに別邸に送り出してくれた。
一泊して行きなさい、とか慰めとか、そういったことは言われなかったけど、それはむしろありがたかった。
「あなたは頑張りすぎる子なのよ。ゆっくりお休みなさい」
お母様がそれだけ言って抱きしめてくれたから、私は少しだけ、子供みたいに泣いた。お父様が頭をひと撫でして、お兄様は私の肩をぽんと叩いて、お義姉様は背中を撫でてくれた。
詮索されないこと、深く関わらないこと、言葉にするとエルネストも家族も変わらない対応なのに、どうしてこんなに感じるものが違うのかしら。
暗くなっていた感情は、エルネストから離れてみて、王女様もいない、二人を見かけることもないんだと思えば客観的な疑問に変わっていった。
彼のそばにいるために、二番目の立ち位置を受け入れなければいけないと思っていた。王女様とエルネストの恋情ではない愛情の相思相愛を認めなければいけないのだとずっと思い込んでいた。その代わり彼を必死に支えようと、彼の役に立とうと。それなりに頑張ってきたと思っているけれど、がんばらなくてもいいんだと思ったらこんなにも軽くなる。
途中で休憩を挟みながら、近づいてくる街にはしゃぐハンナを見ながら、私はゆっくりと瞼を閉じた。