騎士と王女(エルネスト視点)
マリーアンジュ様の婚姻が決まったらしい。
街中でそんな噂話を偶然耳にした。
王都より少しばかり遅れて届いたであろう知らせは恐らく確かなものだ。まさかこんな風に噂話として聞くことになるとは思っていなかったな。
マリーアンジュ様が嫁がれる予定の隣国の王子とは前々から交流があり確定はしていなかったものの、話自体は上がっていた。俺も何度か隣国に共に行き、2人の交流をこの目で見ている。
俺がこんなことを言っていいのかわからないが、幼い頃から関わりのあるお2人の仲は悪くないように見えた。マリーアンジュ様も少なからず好意的に見ているようで贈物の意見を求められたこともある。
貴方に意見を訊くのはあまりいい選択ではなさそうね、とすぐさまその話は無かったことにされたが。
そのマリーアンジュ様が、隣国に嫁がれる。
王族の婚姻となれば色々と準備も必要だ。今日明日どうにかなることではないが、遠からず隣国に向かわれるだろう。
帰らなければ。
マリーアンジュ様から頂いた休暇はまだ残っているが、その話を聞いた瞬間思ったことはそれだった。
マリーアンジュ様の元へ帰らなければ。強く、そう思った。
アリシアに会ったあと、乗ってきた馬車はそのままに、馬を一頭用意してもらいそれに乗って王都への道を進んだ。
できれば馬車にアリシアを乗せて一緒に来て欲しかったが、無理強いは良くないだろう。1人ならば馬の方が早い。
馬車では通れない細道を駆けながら、アリシアの顔を思い出す。
漸く見ることのできたアリシアは、昔のような笑顔を浮かべていた。無邪気な子供のような顔だ。
その顔が胸に焼き付いて離れない。
垣根越しだとしてもアリシアが近くにいるというそれだけでなんだか暖かな気持ちになった。見えなくても触れられなくても、そこにいてくれるのだというだけでいい。
結婚してからの、常に家にアリシアがいてくれるという安心感にも似た感情。それをあのお茶会で感じていた。
それでも、元気でいてくれればそれでいいと、そう思えるのに、顔を見れば手を伸ばしたくなってしまう。
口の中にまだ菓子の甘さが残っているようだ。
アリシアがそうしてくれていたように、アリシアの好きなものを俺も知って共有したいと無理に食べた焼き菓子には何年経っても慣れそうにない。
苦味の強いチョコレートと紅茶でも消しされない、絡みつくような甘さ。
勤務中ならばどんな甘味にも毒にも表情を変えない自信はあるんだが、どうもアリシアの前だと繕いきれないらしい。結局またアリシアが俺に合わせて紅茶を勧めてくれていた。
俺はアリシアのようにはなれないな。
早く、王都へ帰ろう。
***
「あら、エルネスト。随分早かったのね」
王都に着いてそのまま、マリーアンジュ様への謁見を申し出れば、すぐに私室に通された。
今日は何か予定があるのかあったのか、装飾の多いドレスに髪もしっかりと結い上げている。
「ただいま戻りました」
開いた扇で口元を隠しながらも、マリーアンジュさまの視線がさりげなく俺の全身を確認するように動いた。
「それで?あなたの奥様の姿が見えないけれど、どちらにいるのかしら。もちろんプライドも何もかも投げ捨てて謝り倒して連れて帰って来たのでしょう?」
ニコリ、と見えている目元が弧を描く。
「いえ、妻はまだ領地に」
事実をそのままに伝えれば、ふぅん、と声の温度を下げたマリーアンジュ様がパチリと勢いよく扇子を閉じた。
座られている椅子の肘掛に寄りかかり頬杖を突く様子は公式の場では絶対に見せることの無い無作法な仕草だが、この空間にそれを咎める者はいない。
「あら、じゃあどうして帰ってきたのかしら。奥様に振られてしまった?貴方なんかもういらない、興味無い、帰ってくれとでもいわれて諦めて逃げ帰ってきたというの?」
まるで獲物を見つけて追い詰める狩人だ。
不機嫌さが滲み出ているなんて優しいものではない。怒りとも違う威圧感をこの身に感じる度に、この方は人の上に立つ王族なのだということを実感させられる。
「いえ、アリシアを諦めるつもりはありません。振られてもいません」
王都に共に、という誘いを断られはしたが、俺自身を否定されてはいない。
だから。いや、例え否定されたとしてもアリシアが隣に戻ってきてくれることを諦めるつもりはない。そのためにここに、マリーアンジュ様の元へ戻ってきたのだから。
「それなら何だと言うの。わたくしに説明してみなさいな」
マリーアンジュ様の纏われる空気が僅かに変わるが、気だるげに片肘を突いた姿はそのままだ。足を組み、目線だけでさっさと言え、と俺の言葉を促してくる。
「マリーアンジュ様。正式な婚約が決まったこと、心からお祝い申し上げます」
「あぁ、貴方のところにも届いたの」
「恐れ多い事ですが私も大変嬉しく思います」
「ありがとう。わたくしもやっと話が進んでほっとしているところよ」
国同士の言わば契約のようなことで、お二人の関係はずっと止まったままだった。お互いに様子見状態で、他人よりも半歩近く、恋仲にも進みきれず。しかし他に相手を決めることも出来ない。
漸く定まった関係にマリーアンジュ様のお心は僅かでも軽くなるだろう。護衛騎士として俺も安心だ。
「まさかそんなことを言うために奥様を投げ出して来たなんて言うのではないでしょうね」
「いえ、直接お祝い申し上げたかったのも理由の一つではありますが、お願いしたいことがあります」
本題はこの後だ。
マリーアンジュ様の婚姻が決まり、やがて隣国へ嫁がれることになる。護衛騎士も多くはそれに着いていくだろう。
その時俺はどうするのか。
そう考えたときに俺の心は決まっていた。不思議な程に迷いもなく。
いや、始めからずっと俺の心はそこにあったのだから悩む必要もなかったというだけだろうが。
真っ直ぐとマリーアンジュ様を見つめれば、その美しくも力強くもある輝く瞳が僅かに細められた。
「よくってよ。言ってみなさい」
「私を、マリーアンジュ様の護衛騎士から外していただきたいのです」
後悔はない。だが、こんなことを自分の口から言うことになるとは思っていなかった。
一瞬の静寂に包まれた、と思ったのは気のせいだったのかもしれない。
「本気で言っているの」
「私が冗談を言うような人間ではないとマリーアンジュ様が1番良くご存知かと思います」
「そうね。貴方はどこまでもつまらない男だもの。だからこそ聞いているのよ」
長いこと、マリーアンジュ様と同じ空気を吸うことを許されてきた。王族の尊き方を相手に恐れ多いことだが、互いに互いのことをよく分かっている。
「貴女様の護衛騎士をすることは私にとって最高の名誉で、幸福でございます」
す、とマリーアンジュ様が背筋を伸ばして、俺にその華奢な手を差し出した。お立ちなさい、との命令に従って立ち上がり一歩、静かに足を踏み出す。
「それよりも大切な人がいるのでしょう。奥様の傍にいたいのね。よくってよ。誰よりも、このわたくしよりも幸せになさい」
マリーアンジュ様の手を取り、その指先に触れるか触れないかの距離で唇を寄せる。
「ありがとうございます。私の生涯の主君」
頭上でマリーアンジュ様が静かに笑う気配がした。
「エルネスト。最初で最後だと思いなさい。貴方から離れなかった素晴らしい女性なのだから。その掌にキスをなさい。最後の絶対命令よ」
「御意」
今度こそ、アリシアを迎えに。
この腕の中に。