言語ゲームとランキングと神
ウィトゲンシュタインの言語ゲームについてずっと考えているが、やはりウィトゲンシュタインはカントと同じ場所に達したようである。そしてそれはある種のビジョンであるが、それは語り難い。
「言語ゲーム」というものを使って、ちょっと自分を試してみる事にする。例えば、ランキングとかポイントとかは(何に拡大しても同じだが)そういうものである。
以前に、飲み屋であった人間が「俺、芸術の才能あると思うんっすよねー」と言うので、こっちもキレ気味で「ほう、じゃああなたはどの分野においてどんな事をしようとして、誰の影響を受けてどういう作品を作りたいのか、そういう事に対するイメージはあるのか?」とくどくど言ったら「いや、ちょっとそういうのはイイっす」というので(何がイイのかわからないが)、もう何も言うのを諦めたという事がある。で、その人物が最後に言った台詞が「もし俺が売れたら俺の事見直してくれますか?」で、僕は「見直さない」と言った。
さて、この退屈な話にどのような意味があるかと言えば、簡単で、飲み屋であった人物においては売れるー売れないという以上のゲームは存在しないという事である。だから、彼にあっては、売れたものはイイのであり、どれだけつまらないものを作ったとしても、売れればつまらなくはない。そこに彼のゲームがあるが、それは世間の一般通念と完全に一致したものと言える。
「小説家になろう」ではランキングやポイントという制度があり、これを重視している人が多く、だからいかにしてランキング、ポイントを取り、最終的には書籍化するのかという事が問題になる。それは作者の側のゲームであるが、読者の側のゲームは面白いー面白くないでありその相互関係に一連のゲームが敷かれる事になる。
これは色々に拡大できるのだが、「文学」などもそうで、新人賞と芥川賞、直木賞がこの世から消えれば、本気で「文学は消えた」と言う人は結構いるかと思う。新人賞が消失したら小説を書くのをやめる人も結構いるだろう。つまり、そこでは『そういう』ゲームが行われているという事である。
僕は、初期からそういう「ゲーム」を一元化する事に対して批判してきて、また、自分なりに文学とは何かと考えてきたが、それは今や単純に説明できる。つまり、僕もまた「そのようなゲーム」をしているにすぎないという事である。皆がチェスをしていて、いかに勝つかを議論している時に、一人で五目並べをしているようなものである。
しかし、事はそれだけにとどまらない。「小説家になろう」で掲載する僕の文章が仮に、ポイントやランキングというゲームを否定していても、それに対してポイントやランキングというものはつけられる。(こちらで設定すれば外せるが、外せる事は本質的な変化を生まない。しかし説明するのが面倒なので割愛する) という事は、結局の所、僕は人々が基礎とするゲーム、「なろう」において一般的に考えられているゲームに参与するという事になる。そして、そのゲームが全てだという人から見れば、僕は読者数の少ない、ランキングの低い書き手であるという事である。(当然ランキングが高くても同じである)
このゲームにおいて、仮に僕がランキングやポイント、ないし文学においては新人賞、芥川賞、ノーベル賞といったゲームを逸脱した、己のゲームを行使していても、それは賞やポイントというゲーム内に位置づけられる。だから、一般的に人はそのゲームから僕の存在、僕の作品を見る。ここで、僕は自分はあなた達とは違うゲームをしていると言っても、その意味は通じない。その言葉は一般的なゲームから外れているからで、そうなるとそのゲームが世界の全てである人にとって、僕の言っている事は通じない。
だから、僕は何をしようが、この世界に生きているわけだし、そこで評価されたり、評価されなかったりする人である。が、その事と、僕がただそれだけの人間ではない(である)という事は、この世界の一般的なゲームにおいては語り難い。
自分が子供の頃から疑問に感じてきた事、また、人と話していて、いつも人が何が「ズレた」論点を話しているように僕に思われたという事はこのようにして、説明がつく。つまり、そこで僕の目指していたものはそもそも語り得ないものだったのだ、と。どれほどつまらない作品でも、僕が自分を捻じ曲げても、芥川賞を取れば、友人は褒めてくれるだろうし、親も喜ぶであろう、という場合、僕は人々のゲームに参加しているのだという事。そして、一般にはそれ「以外」のゲームが考えられないというのがこの世界の特徴だという事。僕が常に閉塞感を感じてきた事柄は、多くの人にとっては閉塞感ではなく、疑う事自体が自身の核心を破壊するようなものだと先見的に感じられてきた事。そういう事が僕にもようやく納得できた。
さて、それを納得できたら一体、何が変わるのかと言っても何も変わらない。生きる事は、僕には必然的に他者に対する妥協を示す事だ。妥協を示さない場合、僕のゲームは語り得ないものとなる。しかし「語り得ないとヤマダヒフミという人物が自分のゲームを信じた」というゲームも世界の中で、一つの意味として理解されるか、無視されるか、捨てられるかするであろう。世界は常に答えを見つけずに同じようなゲームをしているだろう。そしてこのゲームに飽いたものは「単に」怠惰な人間に見えるだろう。しかし、怠惰に見える人間がそのゲームを卒業した人間なのか、単にそのゲームに満たないものなのか、それを判断する術は世界の内にはいない。それを判断する者は比喩的に言えば神であろう。僕は人間にうんざりしているので神の存在を要請する。そして神はおそらくーー人間よりも人間らしい存在なのだと思う。