夢のまた夢
『 夢のまた夢 』
私は学校の図書館で本を読み耽っていた。
夏休みの図書館は閑散としていて、人影もまばらだった。
私は手当たり次第、本棚から本を取り出しては読んでいた。
読書は濫読に限る。
読みたい本を自由気儘に本棚から取り出しては、読み耽る。
読書している時間は私だけの独りきりの時間だ。
誰にも邪魔されない貴重な時間だ。
一生懸命、読み耽る。
でも、・・・、その内、眠くなる。
生理的な欲求には勝てない、・・・。
私は震えていた。
暗い闇の中でうずくまり、ガタガタと震えているのだった。
どうやら、帽子をかぶっているらしい。
いや、帽子では無い。
どうも、鉄の兜のような重いものをかぶっているらしいのだ。
体の震えのせいか、その兜のようなものがずれて視界を妨げ、私は震える手で兜の庇をしきりに持ち上げているのだった。
私の周りは人で一杯だった。
集団と言ってよいほどの人数であった。
傍らの男が呟くように言った。
どうも、私に話しかけているらしい。
「ゆみまろ、震えているのか」
ゆみまろ?
誰だ、そんな名なぞ、私は知らないぞ。
しかし、私はその男に向かって、低い声で答えていた。
「いぬまろ、そういうお前も震えているではないか」
おかしい。
私の声と違う。
暫く、私とその男の会話が続いた。
その内、私の疑問は氷解していった。
どうも、私は他人の体にのりうつっているらしいのだ。
私が図らずものりうつってしまった男を『この男』と呼ぶことにしよう。
『この男』は、ゆみまろと言う名で呼ばれている男で、傍らの、いぬまろと呼んだ男と親しい間柄らしい。
この男といぬまろは暫く小声で話し合い、話し合う内に、体の震えは収まってきた。
突然、肥った大きな男が近づいてきて鋭く言った。
「おい、そこの二人、話を止めい」
この男と傍らの男は押し黙った。
しかし、それにしても、いやな天気だ。
寒すぎるし、湿度も高そうだ。
辺り一面に、霧がかすかに漂っている。
寒さに震えているのかと思ったが、そうでもないらしい。寒さに震えるにしては、震える程度が激しい。
この男の震えは武者震いか、それとも、恐怖に震えて
いるように思われる。
この男は左手に弓を固く握り締めている。
弓の長さは短い。
いわゆる、短弓と呼ばれる弓だ。
また、腰には刀のようなものを下げている。
刀の飾りは何も無い。
柄は木で作られており、何も巻かれていない。
皮製の鎧を着けている。
これは、短甲と呼ばれる鎧ではないか。
どうやら、私は日本史で言うと、古墳時代あたりに来てしまったらしい。
なぜ?
私は学校の図書館で確か、歴史の本を読んでいたはずだ。
なぜ、私は古墳時代なんぞに居るんだ。
なぜ、今、ゆみまろという男に取り憑いているのだ。
この、ゆみまろという男の指は節くれ立っていてごつい。
それは、この男の出自を物語っている。
庶民の手であり、恐らくは、農作業に従事している手だ。
但し、今は兵士として、ここに仲間と共に、命令を待ってうずくまっているのだ。
いつまで、待つのか。
寒さはますます厳しくなっており、歯の根も合わないほど、全員が震えている有様だった。
また、先ほどの肥った大きな男が現れて、小声で全員に告げてまわった。
「皆、立て。出発だ」
震えながら、全員が立った。
ガシャガシャと武具が短甲と触れ合う音がした。
二、三十人かと思っていたが、驚いたことに、百人を越す武装集団であった。
その大きな男の後について、静かな行進が始まった。
どこに行くのか。
寒い霧の中、泥濘の道をしばらく歩いた。
ふいに、霧が晴れ、視界が一挙に広がった。
その視界の果てに、巨大な屋敷があった。
屋敷に灯りは無く、月の光が黒々とした屋敷を照らし出していた。
濡れた草を踏みしめ、一歩一歩、その屋敷に近づいて行った。
ふと、気づくと、その屋敷は私たちと同じような武装集団に囲まれていた。
千人ほどは居ただろうか、屋敷は完全に武装した兵士たちによって包囲されているのだった。
私たちは屋敷の門の前で立ち止まった。
全員の眼は先頭の肥った大きな男の巨大な背中に注がれていた。
「ゆみまろ、このお館を知っているか?」
「知っている。おおきみのお館だ」
「ここを、・・・、襲うのか?」
「知らない。襲うとしたら、畏れおおいことだ」
「まったく、その通りよ。畏れおおいことだ」
いぬまろは眼を伏せながら、呟いた。
集団の眼は恐怖に凍りついていた。
攻撃の対象が、おおきみとしたら、それは考えられない、とても信じられないといった眼差しであった。
先頭の男の巨大な背中も、どことなく恐怖に打ちひしがれているように感じられた。
伝令と思しき兵士が先頭の男に小走りに近寄ってきて、何事か囁いた。
巨大な背中がびくっと動いた。
伝令の兵士は去って行った。
しばらくして、男は意を決したように、私たちの方を振り返り、鋭く叫んだ。
「門を打ち破り、中に入り、館の者を全て討ち果たせ。一人も生かすな」
大きなどよめきが起こった。
「まさか、そんなこと。俺は嫌だ」
先頭の大きな男の傍にいた、一人の兵士が叫び、逃げ出そうとした。
大きな男は無造作に刀を抜き、その兵士を切り倒した。
「逃げるな。逃げる者はこうなる」
刀に付いた血を振り払いながら、大きな男が言った。
集団が凍りついた。
その大きな男は館の門に近づき、扉に取りついた。
取りついたとみるや、扉を押した。
巨大な力だった。
扉はみしみしと音を立てて、こじ開けられた。
男は私たちを振り返り、手で中に入るよう、合図をした。
私たちは恐怖をかき消すかのように、大声で喚声をあげ、扉から侵入した。
館の中から、人が飛び出して来た。
一様に、信じられないといった表情をしていた。
「そがの手の者か。おろかな」
そう叫んだ者に、私たちの矢が集中した。
全身に矢を受けて、その男は地に倒れ伏した。
飛び出して来た館の者は一人ずつ確実に討ち取られていった。
私が取り憑いている、この男も弓を上手に操り、数名を射殺した。
戦闘はしばらく続いた。
その内、館から飛び出して来る者もほとんどいなくなった。
その時だった。
にわかに、雪が降ってきた。
激しく、降ってきた。
それはあたかも、人間界の愚かな殺戮を憐れむかのような天界の怒りにも思えた。
やがて、殺戮は終わり、館に静寂が戻った。
その静寂の中、館から、一人の貴人が静かに現れた。
襲撃した兵士の群れから、嘆声が洩れた。
「おおきみだ」という声が流れた。
貴人は雪と鮮血に塗れた庭先に静かに立った。
貴人は長身であった。
ゆっくりと、周囲を見渡した。
兵士は一様にその威厳に打たれ、血に塗れた刀を下ろした。
「なんじらは、みずからのしていることを知らない。われをあやめることがいかに愚かなことであるかを知らない。この、いかるがの地を血で染めることがいかに愚かであるかを知らない。なんじらに命じた者に告げよ。われは、その者の望みの通り、今宵死ぬが、館の中に入ってはならぬ。朝、我が死を見にこよ」
こう言い放つや、貴人は館の中に戻って行った。
ふと、気がつくと、この男、ゆみまろは泣いていた。
「うえつみやのおおきみが亡くなられる。あの情け深く、清らかな方が今宵亡くなられる。明日の太陽は上がらない。この世はもうじき滅びる。こんなことがあるなんて」
ゆみまろは泣きながら、呟いていた。
「うえつみや」、ということは、ひょっとすると、あの貴人は聖徳太子だったのか。
聖徳太子は生前は、「うえつみやのみこ」、又は、「うまやとのとよとみみのみこ」、と呼ばれていた。
そして、諡号が聖徳太子であった筈。
皇太子のまま、世を去った筈で、即位して「おおきみ」、つまり大王とはなっていなかった筈だ。
しかし、この貴人は、「うえつみやのおおきみ」、と呼ばれていた。
つまり、いわゆる聖徳太子は天皇だったのだ。
亡くなったのは、推古天皇の二十九年、西暦で云うと、六百二十二年の二月二十二日であり、その時の太子の享年は四十九歳であったと云われている。
しかし、それにしてもこのような形で、蘇我の手の者に襲撃され、自殺に追い込まれたなどという話はついぞ聞いたことが無い。
記憶によれば、太子は前年の末に母の穴穂部間人皇后を亡くしてから、健康を害され、二月二十一日に沐浴を済ませ、后と共に寝所に入り、翌朝の二十二日に后と共に亡くなった状態で発見されたと云う。
私はそのように、日本史関連の本で読み、心中でもしたのかと思ったこともあった。
まさか、このようなことが起こっていたとは、・・・。
「門の外に出て、お館を包囲せよ」
肥った大きな男が大声で命じ、ゆみまろを含む武装集団は静かに館を出て、また元のように門の外に並んだ。
雪は降り止んでいたが、先ほどまで煌煌と輝いていた月は雲に隠れ、黒々とした闇があたりを支配していた。
館の内には未だ死にきれぬ者たちの苦痛に喘ぐ呻き声が時おり恐ろしげに聞こえてきたが、その声も段々とかすれ、やがて全くの静寂が一面に広がっていった。
今ごろ、聖徳太子はどうしているだろうか?
僅かに残った館の者と最期の別れをしているのだろうか?
或いは、理不尽な蘇我の仕打ちを怨み、怒りに震えているのだろうか?
私の日本史の知識では、聖徳太子は天皇であってはいけない人であった。
なぜならば、彼の息子である山背大兄皇子は蘇我入鹿によって族滅され、聖徳太子直系の子孫は絶えたとされている。
族滅は一族皆殺しを意味する。
もし、聖徳太子が天皇に即位していたとするならば、天皇直系の子孫は絶えたということになり、万世一系を原則とする天皇家はその万世一系を否定されることとなってしまうのだ。
聖徳太子が逝去された年は推古二十九年で、西暦で言うと六百二十二年とされる。
蘇我入鹿によって、山背大兄皇子及び一族が悉く族滅されたのが西暦で六百四十三年であり、二年後の六百四十五年の大化の改新によって、蘇我氏は中大兄皇子によって滅ぼされた。
そして、その際の兵変によって、正史である天皇紀及び国紀は焼失し、今に残ってはいない。
一方、現在残っている歴史書として最古のものは七百十二年に編纂された古事記であり、七百二十年の日本書紀である。実に、聖徳太子が亡くなってから、九十年ほども過ぎ去った頃のことである。
天皇紀には、聖徳太子が天皇に即位されていたと記載されていたかも知れない。
歴史は常に勝者の歴史のみが伝わる。
敗者の歴史は伝わらないか、伝わったとしても、捻じ曲げられて伝わるものだ。
そんなことを思いながら、私は茫然と門を前にして立っていた。
雪は降り止んでいたが、風が出てきた。
ひどく寒くなってきた。
肥った大きな男も寒さに震え、小刻みに体を動かしている。
「おおきみは、もう、・・・、死んでいるのだろうか?」
傍らのいぬまろが呟いた。
生気の無い声で、ゆみまろには亡者の声のように聞こえた。
「まさか、このようなことになろうとは」
ゆみまろの声もかすれ、か細く聞こえた。
夜明けまでの時間は実に長かった。
長く感じられたと言った方が適切であったろうが、とにかく夜明けが来た。
夜明けを待って、肥った大きな男が館に入って行った。
しばらくしてから、男は戻ってきた。
伝令を呼び、なにやら小声で告げた。
伝令は頷き、小走りで去った。
私はその肥った大きな男の頬が濡れているのに気付いた。
男の頬を濡らしたのは涙であろうか。
涙に違いないと私は思った。
太子の死を悼む涙に違いないと私は思った。
やがて、ゆみまろの部隊は肥った大きな男の命令と共に引き揚げた。
誰も押し黙ったままで、戦いにはつきものの昂揚感といったものは微塵も感じられなかった。
それはさながら敗北に打ちひしがれた敗軍の感すらあった。
だらだらと歩き、と(・)ある(・・)屋敷の庭に佇んだ。
部隊全員に一杯の酒が与えられた。
肥った大きな男の合図で皆が一斉に杯を飲み干した。
やがて、体全身の痺れを伴う苦痛が襲ってきた。
全員、毒を飲まされたのであった。
ゆみまろは苦痛にもがきながら、地に倒れ伏した。
「おおきみを襲った褒美がこれか。褒美か罰か、知らねえが、きたねえな」
ゆみまろが低く呟いた。
傍らのいぬまろも喉を掻きむしりながら、ゆみまろに言った。
「殺すものは、殺されるか。けっ、つまらねえ。こんなことで、死にたくはねえなぁ、・・・」
いぬまろが白目を剥き出して死に、ゆみまろも苦悶の声をあげながら、死んだ。
その瞬間、私はゆみまろから離れ、空中に浮揚した。
どこに行くのか、・・・。
浮揚していく私の耳に、聖徳太子の定めた十七条の憲法が聞こえてきた。
第一条、和をもって貴しとなし、忤うること無きを宗とせよ
第二条、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏法僧なり
第三条、詔を承りては、かならず謹め
第四条、群卿百寮、礼をもって本とせよ
第五条、あじわいのむさぼりを絶ち、欲を捨て、明かに訴訟を弁えよ
第六条、悪を懲らし、善を勧るは、古の良き典なり
第七条、人おのおの任あり。掌ること宜しく濫れざるべし
第八条、群卿百寮、早く朝りて、晏く退りでよ
第九条、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし
第十条、忿りを絶ち、瞋りを棄て、人の違えることを怒らざれ。人皆心あり。心おのおの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。かれ必ずしも愚かにあらず。ともにこれ凡夫のみ
第十一条 功過を明察し、賞罰は必ず当てよ
第十二条 国司国造、百姓を斂めとることなかれ
第十三条 諸々の官に任ぜらるる者、同じく職掌を知れ
第十四条 群卿百寮、嫉妬あることなかれ
第十五条 私に背き、公に向かうは、これ臣の道なり
第十六条 民に使うに時をもってするは、古の良典なり
第十七条 大事は独り断ずべからず。衆とともに宜しく論ずべし
やたら暗い部屋だ。そして、寒い。
私は一人の男に取り憑いていた。
夕焼けの障子越しに、『この男』は何か手紙を書いていた。
慣れた仕草で巻紙を操りながら、毛筆で流暢に書き進めていく。
この男の眼で見ている私であるが、残念ながら、私にはほとんど判読し難い字であった。
しばらく書いてから、巻紙を傍らに放り出し、この男はごろりと畳に横になった。天井がやたら低かった。
男はかなり厚い綿入れを着ていた。
横になったまま、障子を赤く照らし出す夕焼けの方に眼を遣った。
襖の向こうから、声がかかった。
男が応えると、襖が遠慮がちに開き、大きな男が顔を覗かせた。
「食事はどうなさいます」
そのような内容のことを、その襖を開けた男がのんびりとした口調で話した。
「後でよい」と、この男は答えた、と私は思った。
どこかの訛りであろうか、なにぶん私にはよく聞き取れなかった。
襖は元のように閉じられ、大きな男は去っていった。
私が取り憑いている男は寝そべったまま、小声で何か謳い出した。
存外に渋く良い声だった。
今は、どの時代に居るのか、皆目見当がつかなかった。
部屋は六畳か八畳といったところで、それほど広い部屋ではなかった。
男の横には火鉢があり、僅かな熱気が感じられた。
近くに行灯があるが、まだ灯は入れられてはいなかった。
男の頭の方には、小さな床の間があり、この男の差料であろうか、刀が二本、無造作に立て掛けてあった。
床の間には掛け軸が掛かっていたが、この暗がりの中では、どのような図柄が描かれているか、判然とはしなかった。
また、床の間に向かって右には屏風も置かれていたが、これもこの暗がりでは良く見えなかった。
花と猫が描かれているようであったが。
この男の眼は近眼であったかも知れない。
近くはともかく、遠くは、ぼーとかすんで見え、輪郭が不鮮明であった。
さしずめ、江戸時代といったところか、と私は漠然と思った。
夕焼けの空がすっかり暗くなり、心細げな月が出てきた。
また、襖の向こうから声がかかり、先ほどの大きな男が入ってきた。
男は大きな体にも似ず、器用な手つきで部屋の行灯に灯を入れて、静かに去っていった。
一方、寝そべっている男の方は、黙ったまま、なにやら考えているようであった。
時々、左の手で頭髪の鬢のあたりを掻いた。
鬢のあたりは面擦れであろうか、かなり渦を巻いて密集しているようであった。
かなりの剣術家かも知れないな、と私は思った。
その気で見れば、男の手はかなり大きく、指は節くれ立っていた。
ふと、寝返りを打った際、右手が視界に入った。
右手の親指の付け根に傷があった。かなり目立つ傷で、新しい傷のように見えた。
刀傷だろうか?
男は右手で掴むような仕草を数度行なった。
親指の動きはかなりぎごちなかった。
やはり、指の付け根の傷が影響しているのであろうか。
筋が疵ついているのかも知れない、と私は思った。
この男が剣士であれば、この傷は致命的な傷かも知れないとも思った。
男はまた、巻紙を持ち、行灯に近づけて、筆を走らせた。
親指を立て、残りの指で筆を持って器用に書いていた。
その内、飽きたのか、筆を収め、煙草盆を引き寄せ、十五センチほどの長さの煙管で煙草を喫い始めた。
二、三口ほど喫ったところで、襖の陰から先ほどの肥った大きな男の声がして、来客を告げた。
男は煙草を煙草盆に落とし、襖の方を見遣った。
元気な声と共に、襖がさっと開かれ、若い武士が現れた。
その若い武士は来訪の意を告げた後、この男と火鉢を挟んで座り、世間話を始めた。
どちらも、お国訛りが強く、私にはほとんど理解できない言語のように思えた。
方言に関しては、乏しい知識しか持ち合わせていない私であるが、どうも四国方面の言葉のように思えた。
会話の中に時おり、「しんせん」という言葉が聴きとれた。
しんせん、・・・、新撰組のことか、と私は思った。
新撰組ということならば、さしずめ、この二人は「勤皇浪士」のようなものか。
急に、私の心はうきうきとした感情で満たされた。
これから、自分が目撃する『幕末』に対する期待感であった。
以前から私は幕末に興味を持っており、日本の歴史の中で、これほどダイナミックであった時代は無かったと思っている。
その幕末の一瞬に自分が立ち合っていることに対する喜びがあった。
時代が乱れれば、乱れるほど、英雄、快男子が出現し、予想もしない動きで時代を導いていくものだ。
幕末は日本史の中で一番面白い、と私は思っている。
その内、もう一人、武士が現れた。
随分と小柄な男であった。
どこかで見たような顔の武士だった。
やはり、四国、それも土佐の言葉と思われる言葉での会話が始まった。
やはり、「しんせん」という言葉が会話の中にあった。どうやら、仲間の一人が「しんせん」という組織に囚われているらしい。
彼らの会話の中心は、その同志をいかに救出していくか、ということにあった。
彼らの所属している藩を通して行なうか、私が取り憑いている男の知人を通して行なうか、意見が分かれている様子であった。
その内、最初に訪れた若い侍が挨拶をして去っていった。
二番目に現れた武士が何か言った。
若い侍を冷やかす言葉だったのか、若い侍は照れて、頭を掻きながら笑顔で去っていった。
部屋には、二番目に訪れた武士と私が取り憑いている男の二人がいるだけとなった。
二番目に訪れた武士は「せいさん」と呼ばれており、私が執り憑いている男は「うめさん」と呼ばれていた。
どちらもよく笑う男であった。
「せいさん」は謹厳実直な風貌をしていたが、笑うと非常に人懐っこい愛嬌のある顔になった。
特に、眼が少年のような無邪気な眼になった。
二人の話題は「とくせん」という組織に移っていった。
「せいさん」は「とくせん」という組織には冷淡であり、「うめさん」はどちらかと言うと、なんとかしてやりたいという気持ちが会話の節々に感じられるような雰囲気で会話が続いた。
「とくせん」は徳川のことだと思った。
ふと、会話が中断し、「うめさん」が手を叩いて、人を呼んだ。
襖が開けられ、少年が顔を覗かせた。
「うめさん」が何か頼み、少年がにっこりと頷いて、小走りで去っていった。
どうも、夕食の注文をしたようだ。
二人はまた、火鉢に手をかざしながら、頭をつき合わせるようにして、相談し始めた。
「せいさん」は時おり、激しい言葉で「とくせん」を罵ったが、「うめさん」はなだめるかのように、「日本人同士が殺しあっちゃいかんぜよ」という言葉を繰り返し言っていた。
それに対して、「せいさん」は「とくせんを潰さなければ、あとで悔いを残す。やる時は徹底しなければ駄目だ」といったことをやはり繰り返し語っていた。
口調から言って、「せいさん」は過激派で、「うめさん」は穏健派と私には思われた。
但し、二人共、この国の将来を案じ、憂えていることは痛いように私の心に伝わってきた。
私の生きている時代では、国を憂えるなどという言葉は既に死語に近い言葉であったので、この幕末に生きている二人の若者の言葉は実に新鮮な響きを持って私の胸を打った。
「うめさん」は身振り手振りを交え、雄弁に語り、一方、「せいさん」は膝頭を両手で掴むようにして、こちらも熱弁を奮っていた。
どちらも一流の志士であり、聴いている私の心はいつしか熱い共感の念で満たされていった。
幕末は素晴らしい時代であり、私の生きている時代の何とみすぼらしいことか。
階段の方で物音がした。
先ほど、小走りで出て行った少年が帰ってきて、あの大きな男と何か戯れているようにも思われた。
「うめさん」はちらっと物音がした方に視線を走らせ、のんびりした口調で「ほたえな」と一言言った。
その時だった。
襖が突然開かれ、数名の武士が部屋に躍り込んできた。
彼らは既に抜刀していた。
一瞬の内に、斬撃が始まった。
「せいさん」は後頭部に斬撃を受け、「うめさん」は前額に水平の斬撃を受けた。
血が溢れ、眼に入り、一瞬、視界を失った。
「うめさん」は背後の床の間の刀に手を伸ばしたところで、また新たな斬撃を受けた。背中を斬られた。
刀を抜く暇は無く、鞘ごと持って、立ち上がったところにまた、鋭い気合と共に、唐竹割りの斬撃がきた。
鞘ごと受けたが、受けきれず、前頭部を斬り割られた。
「うめさん」は昏倒した。
一瞬の出来事であった。
「もうよい」という襲撃者の声がして、賊は去っていった。
「うめさん」の意識は急速に失われていった。
失われていく、その意識の中で、「うめさん」は思っていた。
オレハ、アッケナク キラレテシマッタ。
ソレニシテモ、ウデキキノ モノタチダ。
モウ、オレハ イカヌ。
モウスコシ、イキタカッタガ。
ザンネンダ。
ホントウニ、ザンネンダ。
・・・。
私は「うめさん」から離れ、空中に浮揚した。
「うめさん」は死んだ。
「うめさん」は才谷梅太郎こと、坂本竜馬であり、「せいさん」は石川清之助こと、中岡慎太郎である。
私は中岡慎太郎の顔を知っていた。
竜馬同様、中岡慎太郎の写真も幾葉か現存しており、二番目の武士として現れた時から、この暗殺は免れないことと思った。
しかし、実体が無く、他人の体に取り憑いているだけの存在でしかない私には、何もできなかった。
ただ、彼らの会話を聴き、暗殺の時を待っているだけの存在でしかなかった。
しかし、私の心は今感激で熱く満たされていた。
二人の会話を聴き、本物の男たちの熱い鼓動を聴くことができたことは至福のことであった。
坂本竜馬は世に知られる存在となって、三年ほどで歴史の舞台から去った。
僅か、三年という短い時間の中で行なった彼の事蹟はあまねく世に知られているところである。
時間ではない。
熱い想いであろう。
中岡慎太郎も然り。
幕末の草莽の志士たちの志を私たちは忘れてはならない。
私は更に浮揚し続けた。
私はどこに、行くのか。
いつのまにか、私は『この男』に取り憑いていた。
時代は判らない。
場所も判らない。
ただ、この男は疲れていた。
まさに疲労困憊の体で石の上に腰を下ろしていた。
右手には刀を握り締めていた。
刀の刃は打ち傷だらけで、かなりの刃こぼれが見受けられた。
この男の疲れは私にも感染してきた。
何時間も全力で駆け続けたような疲れであった。
この男は刀を離そうとしたが、右手は固く握り締められた状態で、離そうとする彼の意思を拒んだ。
この男は苦笑し、左手で右手の指を一本ずつ離していった。
緩慢な動きであったが、ようやく刀を離すことができた。
私はこの男を観察した。
と言っても、私の眼はこの男の眼であり、当然のことながら、この男の顔は見えない。
この男の視線に合わせて観察することとなる。
男は真紅と言って良いほどの赤い甲冑を身に纏っていた。
血の臭いがしてきた。
よく観ると、赤い甲冑は血でさらに上塗りされているような状態であった。
それは、凄まじい戦闘を物語っていた。
そして、男の体からも血が滴りおちているようでもあった。
男は両手を使い、兜の緒を緩め、頭から兜を外した。
頭が急に涼しくなった。
男は太い溜息をつき、外した兜を観ていた。
兜もかなり傷ついていた。
兜の前立てはほとんど脱落しかねない様相を呈していた。これも、激しく凄まじい戦闘を物語っていた。
男は真紅の兜をじっと見詰めた。
感慨深そうに見詰めた後、その兜を足元に置いた。
それから、左手の方を眺めた。
そこに、一人の武者が倒れていた。
やはり、赤い甲冑に身を固めていた。
男が何か呟いた。
どうも、その武者に声をかけているらしいが、武者の反応は無かった。
「一人になってしまったのか」
男は淋しく笑った。
ここは、神社の境内の中らしい。
戦場のどよめきは遥か遠く、あたりは濃い緑と蝉時雨に包まれていた。
男は低く呻き、右の脇腹を押さえた。
槍傷でも負っているのか、押さえた指の間から血が滲み出していた。
「あと一歩。あと一歩であった。あと、一歩で、・・・、討ち取れた。・・・、今となっては、これは未練か、・・・」
男は低く呟いた。
男は眼を閉じ、何かを想った。
男の脳裡には、巨大な城郭が映っていた。
黄金に輝く白亜の壮麗な巨大な城であった。
肥満した巨大な若者と絢爛豪華な衣装を纏った中年の婦人の姿も映った。
山里の鄙びた農家も彼の脳裡にしばし浮かんでは消えた。
その農家に向かって、男は微笑んだ。
また、鋭い痛みが脇腹を襲った。
男の顔は苦痛に歪んだ。
その時であった。どこかで、叫び声がした。
男は薄目を開けて、声が聞こえた方を見た。
そこに数名の武者が居た。
槍を構えて近づいてくる姿を見た。
先頭の武者が何やら叫んだ。
奇妙に甲高い声であった。
声はうわずっており、よく聞き取れなかった。
もう一度、その武者は叫んだ。
今度は私にも聞こえた。
「さなださまと、お見受けいたす。それがしは、・・・」
さなだ、と言った。
私はすぐに、この男の素性と今置かれている立場を理解した。
この男は、今私が取り憑いているこの男は、真田幸村で、この場所はおそらく安居天神であり、今、目前で槍を構えている武者は、幸村の首級を取ったと云われる西尾仁左衛門という越前の侍であろう。
西尾の他に、武者が二人居た。
彼らは一様に槍を構え、じりじりと近づいてきた。
彼らの顔は緊張に歪み、蒼白であった。
幸村は右手を静かに挙げた。
西尾らははっと驚き、十メートルほど後ずさった。
幸村は右手でうるさい蝿を追い払うかのようにひらひらと動かしながら、言った。
「今しばし、我に時を与えよ。我が命、はや尽きるわ。しばし待て」
そう言うなり、この男は眼を閉じた。
死にゆくこの男に周囲の騒音はもう遠いものとなった。
先ほど、脳裡に映った巨大な若者というのはおそらくは豊臣秀頼であろう。
身の丈はゆうに六尺を越えていたと記録されているこの若者は、常人より小柄であったと云われる秀吉の息としてはかなり遠いところに居る。
とは云え、この大坂夏の陣の後で、市中で謳われた俗謡に、「花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田が背負い、退きも退いたり、鹿児島へ」という俗謡がある。
二十三歳で自刃した秀頼は「花のようなる」若者でなければならなかったであろうし、圧倒的な劣勢にもかかわらず、徳川家康をあと一歩まで追い詰め、一時は家康に切腹まで思い詰めさせたと云われる真田は「鬼のようなる」武者でなければならなかったのではないか。
現実的には、今私が取り憑いている真田幸村は白髪頭の小柄な中年、というよりは、むしろ老年に近い男であった。
一方、秀頼は百九十センチ近い肥満した巨大漢であったと云われる。
秀頼の傍らにいた絢爛豪華な衣装を纏った中年の婦人は史上悪名高い淀殿であろう。
秀頼と共に自死した時の年齢は四十九歳と云われる。
これは奇しくも伯父の織田信長が明智光秀の謀反に遇い、本能寺でその鮮烈苛烈な生涯を閉じた時の年齢と一致する。
真田幸村の独白が私の心に響いてきた。
オレハ、イマ、マンゾクシテイル。
イエヤスハ、ザンネンナガラ、アトイッポノトコロデ、
ウチモラシタガ、コノメデ、イエヤスガ ロウバイスル
スガタヲ ミルコトガデキタ。
クドヤマデノ ヒンキュウトクラベ、コノタタカイノ
アデヤカサハ ドウダ。
オモウゾンブンノ タタカイガデキタ。
アトイッポ オヨバナカッタガ、
ショウハイハ トキノウン トイウ。
オレハ クヤマナイ。
オレニ コノタタカイヲ アタエテクレタ テンニ
カンシャシナケレバナラナイ。
ブカハ ヨク タタカッテクレタ。
ブカハ モウ サンズノカワノ イリグチニ
ツイテイルコトダロウ。
オレハ イササカ シニオクレタ。
コレカラ アノモノタチノ トコロニ
イソグコトトシヨウ。
アノヨトヤラデ、キョウノ イクサヲ サカナニ
サケヲ クミカワスコトトシヨウ。
オレハ、イマ マンゾクシテイル。
オレハ、イマ マンゾクシテイル。
急に、私は浮揚した。
浮揚する瞬間、朽木が崩れ落ちるかのように、横向きに倒れ伏した幸村の死骸に取り付く西尾仁左衛門の姿が目に入った。
この戦いの後、赤備えの真田軍団の死戦は高名となり、歴史に語り継がれることとなった。
真田幸村にも多くの賞賛の言葉が敵味方の別無く残っている。
「真田は不思議の武将にて、部下の将兵は全て死戦せり」
「真田、日本一の兵なり」と。
私は仄暗い部屋に居た。
暗かったが、灯りが無いわけではなかった。
視界に、畳に置かれた缶詰らしい容器から小さな炎が出ているのが入った。
それが唯一の灯りであった。
室内には、その灯り缶がいくつか置いてあるようであった。
また、室内には電灯もあることはあったが、電灯の灯りは燈されてはいなかった。
私はまた、一人の男に取り憑いていた。
私が取り憑いている『この男』の周りには十数人の男があぐらをかいて座っていた。
いずれも、視線を畳に落とし、押し黙っていた。
何となく、不気味な雰囲気が漂っていた。
奇妙であったのは、『この男』たちの服装であった。
戦争映画でよく見るような軍服を着ていた。
中には、ゼロ戦パイロットが着るような飛行服を着ている者も居た。
ゴーグル付きの飛行帽も見掛けた。
どうも、戦時中の時代に飛んできたようだった。
この男がふと視線を上げた。
視界に、室内の周囲の壁に寄りかかるようにして、一団のやはり軍服を着ている男の集団が座っていた。
その集団では、話している者も居たが、小声で話しているためか、彼らの会話は全然聴き取れなかった。
この男はまた視線を落とした。
この男を含め、車座に座っている男たちは室内の真ん中に座っているようであった。
そして、この男たちを大きく囲むように、室内の壁に背をもたせ加減にして、ひそひそと小声で話す男たちの集団が座っていた。
何か、物音がした。
ドアが開くような音だった。
男たちは無言で、音のした方を見た。
無表情であったが、いずれもぎらぎらと異様に輝く眼をしていた。
ぞっとするような鬼気迫る眼だ、と私は思った。
ドアを開けて中に入った者の目にはあたかも幽鬼に満ちた一団のように見えていたかも知れない。
ドアの方で数名の軍服を着た者同士の会話が少しあり、また、ドアは閉じられた。
この男も視線を元に戻した。
また、硬直した、居たたまれないような時間が始まった。誰もが押し黙ったまま、座っていた。
その内、この男の左隣に座っている男があぐらを解き、おもむろに、畳の上に仰向けに寝転んだ。
「寝るのか。毛布を持ってきてやろうか?」
この男が寝転んだ男に、ぼそっと囁いた。
「いや、結構だ。寒くない。このまま、寝るよ」
やがて、一人、また一人と横になる者が増えていった。
この男も最後の方で畳に寝転んだ。
どこからか、静かにむせび泣く声が聞こえてきた。
室内の片隅に座っていた集団も、『この男』たちが全員横になるのを待って、横になり始めている様子が窺われた。
『この男』たちの就寝を待っていたかのようであった。
横にはなったものの、この男は眠らなかった。
目がさえて、眠れなかったのかも知れない。
何か、昔のことを想い出している様子であった。
時々、静かに目を擦った。
浮かぶ涙を拭いているようであった。
一度だけ、呟いたことがあった。女性の名前だった。
いつしか、朝になった。
闇の帳が開け、徐々に室内が明るくなってきた。
この男を含む男たちは全員ごろ寝から起き上がった。
この男は窓を見た。
窓の外は晴れていた。
この男は言った。
「さあ、いいお天気だ。みんな、窓の外を見てみろ」
意外なことに、元気な明るい声だった。
その声を聞いて、誰かが大きな声で言った。
「特攻日和だ。アメちゃん、待ってろよ」
元気な、その声につられて、みんなが笑った。
何の翳りも無い、朗らかな笑い声だった。
私は愕然とした。
『この男』たちの一団はあの特攻隊だったのか。
神風特攻隊か。
昨夜の鬼気迫る様子は微塵も感じさせず、実に陽気な集団と化していた。
今日、特攻で死んでいく者にしては明るすぎる雰囲気だった。
この男は室外に出て、洗面をし、歯も磨いた。
元気な朝の挨拶を仲間たちと交わしていた。
兵舎の食堂で朝食を摂った。
「今朝の朝食は豪勢だな。残る連中にすまんなあ」
「なあに、順番だ。俺たちも行くから。その時は俺たちにも今日みたいなご馳走がでるよ」
特攻隊員と普通の搭乗員の会話と思えた。
朝食の後、昨夜の搭乗員室に戻り、この男は手紙を書き始めた。
それは遺書であった。
両親宛、兄弟宛、最後に昨夜呟いた女性宛と、三通書いた。
女性宛の手紙の中には、レンゲの花を、そっと大事そうに入れた。
出撃の時間が来たようであった。
『この男』たちは兵舎の玄関前に全員集合した。
この時、機内で食べるようにと昼食の缶詰を渡された。
それは、いなり寿司の缶詰だった。
誰かが、機内で食べるのは面倒だから、ここで食べようぜ、とみんなに呼びかけた。
誰彼無しに缶詰を開け、地面に車座に座って食べた。
それは和気藹々(わきあいあい)として、まるで遠足で母が作ってくれた弁当を食べる光景のように私には思えた。
それから、指揮官から今日の特攻に関する指示があった。
男たちは渡された地図を片手に指揮官からの指示を聴いた。
誰か、とんまな質問をし、みんなの笑い声が起こった。
写真係が来て、男たちの写真を撮った。
この男は絹の白いマフラーが綺麗に撮れるかどうか、気にしながら最期の写真を撮ってもらった。
写真機を真っ直ぐに見詰め、白い歯を見せて笑った。
その後、この男は玄関前にいた報道関係者の一人をつかまえ、彼に一通の封筒を渡した。
その報道関係者は一瞬怪訝そうな顔をしたが、特攻隊員からの最期の頼みということで、その封筒を大事そうに押し戴いて、胸ポケットに納めた。
この男を含め、全員機上の人となった。
飛行機はゼロ戦だった。
操縦席の中は少し油臭かった。
この男は大きく深呼吸をした。
部隊長以下全員が敬礼する中、エンジン音を響かせ、滑走路を飛び立っていった。
この男は白いマフラーを振りながら、敬礼する全員に最期の別れを告げた。
翼を軽く振って、小さくなった航空隊兵舎に別れを告げた。
「さあ、これからは自由な時間だ」
この男は機内では饒舌に独り言を始めた。
敵艦目掛けて突入するまでの時間が最期の独りきりの自由な時間となった。
もう、遠慮はいらない。
この男はそう思っているかのように、独り言を始めた。
「特攻命令を受けた時の俺の心の衝撃は凄かった。いつかはこの命令が来るものとは思っていたが。立っている自分の足元が崩れ落ちていくように感じた」
「腰が砕け、へなへなとその場に座りかねない状況だった」
「でも、その後、特攻命令を受け終わった後は、頭が急に冴え渡り、冷静になっていくのが自分でもはっきり解かった。なぜだか、とても安らかな気持ちになった。あれはなぜだろう。どうも、よく分からない」
「しかし、昨夜は違った。搭乗員室で廃油缶のランプの灯を見詰めながら、俺たちはみんな黙って最期の夜を迎えた。
とても、話す気にはなれなかった。普段はおしゃべり好きな○○上飛曹も目をぎらぎらさせたまま、押し黙っていた」
「今朝は、俺たちは違った。妙にみんな元気で明るかった」
「押し黙ったまま、目ばかりぎらぎらさせていた俺たち、今朝のように、明るく陽気に振舞える俺たち、どちらも本当の俺たちの姿だ」
「いつか、誰かが言っていた。決死隊と必死隊は違う、ということを。特攻隊に入って、それが判った」
「決死隊は死ぬ可能性もあるが、生き残る可能性もある。死ぬことが怖くなる。一方、必死隊は、これは明らかだ、必ず死ぬのだ。生き残る可能性はゼロだ。特攻隊は必死隊なんだ。泣こうと喚こうと、死はそこにあるのだ。俺たちは自分の意思でその死に向かっていくのだ」
「死刑囚とは違う。俺たちは何の罪も犯していない、ただ、戦争という非常事態の中で自ら望んで死んでいくのだ。正々堂々と死んでいくのだ」
「あの報道関係の人は封筒を開けて、きっとびっくりするに違いない。中に、お金が、俺の少尉としての一ヶ月の俸給が入っているから。死にいく俺には関係のない金だ、どういう形で使われてもいい。きっと、俺のことを訊いてまわるに違いない。俺の名前が分かった頃、俺は死んでいるのだ」
「死んでいくのは、誰のためだ。天皇陛下のためだと言っている馬鹿者が居た。冗談じゃない。俺の場合は天皇陛下のためではない。天皇陛下のために死んでいく奴なんか、誰もいないはずだ。俺たちは親を含む全ての日本人のために死んでいくのだ。アメリカにそうたやすくは戦争には勝てないのだということを教えるために死んでいくのだ。たやすく勝てば、勝者は敗者を馬鹿にして軽んじる。アメリカは日本という国を、劣等国扱いをするに違いない。そうはさせない。させるものか。馬鹿にされないように、たやすくは勝てなかったということをアメリカに教えてやりたいのだ」
「俺たちが自分の意思で飛行機もろとも体当たりで死ぬことによって、アメリカは日本人を少しは尊敬するだろう」
「日本はこの戦争に負ける。誰が見ても、今の日本に勝ち目はない。この特攻をしても、勝てない、日本は負けるだろう。しかし、負け方があるのだ。この特攻によって、少しでもアメリカに恐怖を与えるのが、俺たち特攻隊の役目だ」
「俺は靖国には行かない。靖国に俺の魂は無い。俺の魂は郷里のあの神社に行く。あの神社で俺は懐かしい人々に会うのだ。祭りになれば、みんな来るだろう。その時が楽しみだ。俺は若いままだが、みんなは歳を取っていく。歳を取っていく、みんなを俺は見たい」
「俺たちは今日、死ぬ。俺たちが死ぬことによって、日本は生まれ変わる。生まれ変わった日本はきっと今より良い国になる。何の名分があろうとも、他の国を侵略する国には絶対なっていないはずだ。不平等を無くし、いろんな可能性を全ての国民に与え、人を大事にして、自由にものが言え、働くことに喜びを見い出せる国に絶対なっているはずだ。豊かでは無くとも、卑しくは無い国になっているはずだ。俺はそう信じて、今日笑って死んでいく」
「しかし、○○さん、ひどいよ。学徒出陣の時に俺を慕っていると初めて告白したのは、ひどいよ。あの告白は俺にはショックだった。もう少し、前にその言葉は言って欲しかった」
「だって、俺が君を好きだというのは、君は分かっていたんだろう。なら、もう少し前に、君も俺のことを好きだと言って欲しかった。それが今の心残りだ」
「俺は君のために死んでいく。君は立派に生き残って、誰か、俺よりずっと素敵な人と結婚して、これ以上ないほど立派な家庭を持って、子供をたくさん生んで、立派に育て、負けた日本を再生する子供に育てて欲しい。それが、死にいく俺の最期の望みだ」
「しかし、本音を言うと、俺は君が好きだし、君と平凡で穏やかな家庭を持ちたかった。いっぱい、子供を生んでもらって、その子供たちと一緒にお風呂に入ったり、休みには釣りをしたり、露店で氷あずきを食べてみたかった。そして、いつも俺の傍には君が微笑んでいる。そんな暮らしがしたかった。そんな夢を不可能にした戦争が憎い。本当に憎い。戦争の無い国に住みたかった。貧しいけれど、心豊かに暮らせる国に住みたかった。愛する人と幸せな家庭を築き、笑い声の絶えない明るい家庭を作りたかった」
「君はいつか俺に聖書の言葉を教えてくれたよね。一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてありなん。死なば、多くの実を結ぶべし、と。俺は、そのように君と生きたかった。お願いがあるんだ。いつか、俺の郷里の神社にお参りして欲しい。俺は必ずそこに居るから」
「良い戦争も無ければ、悪い平和も無いのだ。戦争さえ、無かったら・・・」
「二時方向に敵機が現われた。直掩機よ、頑張ってくれ。俺たちは爆装しており、速度が出ない。何とか、追い払ってくれ」
「ああ、一機が撃たれ、落ちていく。俺たちの方に敬礼をしながら落ちていく。待ってろ、俺たちもすぐ行くから」
「また、一機、俺たちを庇って、敵機の銃弾を受けて落ちていく。すまない。許してくれ」
「ようやく、敵艦が見えてきた。さあ、日本男児の意気を見せてやろう。度肝を抜いてやろう。あの、正面の空母が良い。みておれ」
この男はそう言うなり、歯を食いしばって、操縦桿を握り締め、真っ直ぐに突入していった。
私は、突入していく『この男』の最期の言葉を聞いた。
確かに、聴いた。
それは、天皇陛下万歳、という言葉では無かった。
数秒後に、私はこの男の体を離れ、空中に浮揚した。
私はどこへ行くのか。
私は明るい部屋に居た。
蛍光灯の明るさだった。
見たことがある部屋だと思った。
インクの匂いと少し黴臭い臭気も感じられた。
周囲を見渡した。
驚いたことに、私の意思通りに首が動いた。
これは、私の体ではないか!
もう一度、自分の意思で首を回し、あたりを見渡してみた。
確認するまでも無かった。
いつのまにか、元の学校の図書館で本を読んでいた自分に戻っていたのである。
私は狐につままれたような思いで、目の前の本を茫然とした思いで見た。
歴史哲学の本で、いかめしい文字が並んでいた。
机の前に、いつの間にか、一人の女子学生が座っていた。
少し、怪訝そうな顔で私を見た。
可愛い女の子だ。
私は彼女に訊いてみた。
「すみません。僕は今、ここで居眠りでもしていました?」
何と言う間の抜けた質問だったことか。
でも、彼女は目尻で笑いながら、私に言った。
「いいえ。少し、目をつむっていらしただけよ」
私は今まで、他人の体に乗り移り、いや、取り憑いて、いろいろな事件の現場を見てきた。
今も、生々しく覚えている。
時空を越えて、歴史上有名な人物の、或いは無名の人の死にざまを見てきた。
あの私は一体誰だったのだろうか?
そして、今ここに座っている私は本当の私なのだろうか?
実は、どこかで本当の私が夢を見ていて、その夢の一部として、ここで座っている私があるのだろうか?
試してみよう。
今、目の前に座っている女子学生は私の好きなタイプの女の子だ。
話しかけて、お茶に誘ってみよう。
断られたら、これは本当の現実の世界だ。
自慢するわけではないが、女の子をお茶に誘って、成功した試しがない。
勇気を奮って、声をかけても、いつも返事はノーという返事ばかり。
これまでの私の人生ではいつもこうだった。
お茶に誘って、OKだったら、これは夢だ。
まだ、私はどこかの誰かの夢の中に居るのだ。
そう思って間違いはない。
試してみよう。
「あの、・・・、よければ、お茶でも飲まない?」
女の子は私の顔を見た。
そして、信じられないような言葉を口に出して言った。
「いいわよ。少し喉が渇いたし」
ああ、やはり私は未だ夢の中にいるのだ!
これから、私という存在はどこに行くのか?
私は目の前が暗くなっていくような気分に襲われた。
完