あなたの弱点 5
***
「ホント気が重くなるっていうか……不安になってくるわぁ」
隣の席から中島さんの嘆きの声が聞こえた。
新規で請け負った医療機関向けの開発作業に加え、既存顧客からのトラブル報告。早急に対応を必要とする作業の上乗せで、優先順位を確定して今後のスケジュールを一旦見直そうと催された打ち合わせ。
結局今週出張の予定もない私と中島さんが主立ってトラブル対応を担当することに。
通常作業だけでも割といっばいいっばいなのに、ここにきて加えられたイレギュラーな作業。今までやってきたことがストップする戸惑いに、まだ終わりの見えていない障害対応への不安。
打ち合わせから戻って自分の椅子に腰を下ろした中島さんが悲観的な言葉を口にしても、なんら不思議なことはなかった。
「せっかく今日は定時退社日なのにー。今日中にある程度目処つけないと帰れないじゃない」
「そうですね」
「今から再現確認して、改修してテストして報告書書いて……今週中に収まればいいけど」
「……頑張りましょう」
飛び込むイレギュラーな仕事にも多少は慣れてきた。
それでも連日の残業が確定した今、溜息をこぼす中島さんの気持ちはわかる。
……そう、だから今私が頭を悩ませるべきなのは仕事の筈なのに、筈なのに……。
時折頭にチラつく彼の姿に、今ひとつ同調出来ない自分がいた。
ちょっと前の私だったら、私を一喜一憂させるのはほぼ仕事で。こんな仕事が山積みの状況には慌てたりイラっとしたり、精神的にもっと振り回されていたように思う。
だけど今はそれ以上に頭を悩ます存在のお陰で……なんて考えて、また彼のことが頭を過った時だった。
「あぁ、私も支倉くんに会って癒されたかったわぁ」
「!」
聞き捨てならない台詞が聞こえて、マウスを動かそうとした手を止めた。
「なっちゃん昼休みに支倉くんと会ってたでしょ? 会議室から支倉くんが出てくるの、見ちゃった」
確かに支倉くんと入れ替わるように中島さんがやって来たけど。さっきはそんなこと言わなかったのに、ここに来て時間差でのイジリ?
支倉くんの話になると、中島さんはどこか生き生きとしてくるように見えるのは気のせいじゃないと思う。
顔を向ければニヤリとした楽しそうな顔が向けられていた。
「……えーと、ただちょっと会って話してただけですよ」
「えー、でも社内でこっそり会うなんてラブラブじゃない、羨ましいわー」
「え、いえ……」
別にラブラブじゃないですから……!
そう言おうとしたものの、どうにも思い出されるのは昼休みのやり取り。
疑ったり納得したり混乱したりドキドキしたり。嫉妬とか独占欲とか意外な言葉を聞かされたことを思い出す。
おまけに……。
「なっちゃんなんか顔赤くなってない?」
「え! き、気のせいですよ!」
一瞬ではあったけど、キスはキス。
社内でキスをしてしまった事実を思い出すと、どうにも恥ずかしさが込み上げる。
思わせぶりなことを言われてからのあの一瞬のキス。
何かもう少し覚悟したのに、掠めるようなキス。
だから、え、それだけ……? なんて拍子抜けした自分が、ダメだと言った割に期待したみたいで無性に恥ずかしくなった。
それに……。
短いキスに驚いて顔を上げれば、嬉しそうな顔がそこにあって。悪戯が成功した子供みたいに笑うから、その珍しい無邪気な笑顔にときめいてしまったのも事実な訳で。
たから色々思い出すと、本当は悶えたくなる勢いだった。
「ふーん、怪しいなぁ。ホントはイチャイチャしてたんでしょ?」
「そ、そんなことしてませんって!」
「本当にー?」
「……ほら、仕事しましょう! 仕事!早急に対応ですよ!」
「えー、もっと話聞きたいのに」
これ以上絡まれると何かボロが出そうだから。まだ絡み足りなそうな先輩を強引に躱してディスプレイに向き直る。
それでも言葉の通りに仕事、仕事と意気込んだつもりではあったのに。
……え?
ふと見ると、新たにメールが届いていることに気付いて。そのタイムリーな差出人の名前は無条件に私を動揺させるもので、頭の切り替えに失敗した。
……何? 何か言い忘れたことでもあったとか?
わざわざ社内メールを使ってまで急いで伝えたいことがあるとは思えないものの、何が書いてあるのかすごく気になったから。
珍しいそのメールを恐る恐る開いた。
「…………」
「ねぇ、なっちゃん、とりあえず今から客先環境整えるのに必要なデータ送るから」
「…………」
「なっちゃん?」
「…………えっ、あっ、はい!」
「ん? どうしたの? なんかあった? 今からデータ送るけど」
「……あ、いえ、何でもないですっ。データですよね、ありがとうございます」
返事をしながらさり気なくマウスを動かしてメールを隠す。
私とは違い、中島さんはさっと頭の切り替えに成功したらしい。ナチュラルに転換された仕事の話に遅れた反応を見せると、若干不思議そうな視線を向けられた気がしたから、精一杯の何でもないフリで押し通した。
そして出来うる限りの平静を装いながらデータに関して言葉を交わせば事なきを得て。会話が一段落し、中島さんの注意が私から外れたことに内心ホッとする。
それでも。
スルー出来ないそのメールがやっぱり無性に気になってしまうから。
周りに注意を払ってからもう一度こっそりとメールを表示させた。
"やっぱり「割と」じゃなくて「かなり」かもなと思って。"
それが何を示しているかはすぐにわかった。
同時に、どうにも胸が熱くなる。
なんでわざわざこんな……メールを送ってまで訂正したいこと? また揶揄われてる?
その意図が計り知れなくて疑念の思いが湧くものの。
『俺はいつも正直』発言がチラついてしまうのか。少し回りくどい言い回しが彼らしくて、全くの冗談だと流しきれない。
……ホント今日はどうしたのかな? 妙に積極的というか、変に素直というか。
このメールといい、いつにも増して私を動揺させる言動の連続に、この後やることはいっぱいあるのだからさっさと頭を切り替えないと、と微かに残る冷静な私が呼び掛けてはいるのだけど、やっぱり胸は落ち着かない。
直接対面していれば胸に溜まった何かを本人に吐き出せるのに、この遠隔爆弾ではそうにもいかないから。
心の中で「もうっ……」と呟きながら、返信ボタンを押した。
"私に対してはいつも正直なんだよね?
素直な気持ちとして受け取っておきます。"
そして動揺を悟られないようにクールぶった返事を書いて、これで出そうとしたものの……何か物足りないような。
私ばかりがドキドキしている。隠そうとしたとしてもそれは事実な訳で、少しだけ悔しいからかな。
だから。
うーんと一度考えて、"せっかくなので"と前置きしてもう一言付け足した。
これで彼もちょっとくらいドキッとすればいいなんて無謀なことを思いながら。
***
報告にあった客先でのエラーがここでも出るかを確認すればあっさりと再現出来たから。じゃあ具体的にどこに原因があるか条件と場所を絞るフェーズをこなして。
検証結果を見ながら中島さんと見解を話し合う頃にはもう日は傾いていて、定時で帰るという本来の行動をとる方々を見て少し切ない気持ちになった。
それでもまだまだ帰る目処はつかないから。
「あっ、申請」
「あぁ、そうですね。出さないとですね」
定時退社日に残業するには課長経由で部長まで申請書を提出する決まりが最近出来て。定時で帰れって言われてんのになんで残業するんだって話なのかな。緊急性が高いとか理由を報告しなくてはいけない。
「もうっ! 忙しいのに面倒くさい作業増やさないでほしいんですけどー」
「ちょ、中島さん! 声大きくないですか? あそこに部長いますよっ」
確かにすぐ終わることとはいえ申請を出す為にメールを一通送るというのが若干面倒くさい。忙しいから仕事をするのに別の仕事を増やさないでほしい。
大っぴらには言えない気弱な私とは対照的に、それを露わにする中島さんに焦りを覚えつつも。申請書を出す為にメールを開くと、作業に集中してメールチェックを怠っていたからか未読のメールが溜まっていた。
チーム間とか課全体でとか直接私宛じゃないものでもCCで届くから今日も大半がそうなんだけど。
そんな中、明らかに私オンリーに宛てられたメールが一通。
……え? また?
リターンがくるとは思わなかったから。
本日二度目のその名前はどうしようもなく私の目を引いた。
別に返事は期待してなかったから、てっきりスルーされるものだと思っていたのに……。
わざわざくれた返信に何が書かれているのか気になって、吸い寄せられるようにマウスを合わせクリックした。
「………!」
ちょっとくらいドキッとさせたくてこちらからも仕掛けたつもりだったけど。よく考えれば多少の攻めじゃカウンターを喰らうことなんて想定出来たことだった。
……だからこの返事は態となんだ、そう思う気持ちはあるのに。
胸の奥からざわざわと何かが込み上げてくる。彼の言葉一つで心揺らす自分はなんてチョロいんだろう。
それでも、こういう返し方をされるとなんだか、なんて言うか……。
「……ん? どしたの、なっちゃん」
「……えっ、なっ、何がですか?」
「何って、なんかニヤニヤしてるから」
「えっ! な、何言ってるんですか?! に、ニヤニヤなんてしてないですよ!」
">せっかくなので私からも。
>金曜日が待ち遠しい。前よりずっとそう思う。
それが素直な気持ちなら、愛されてるのかななんて。
自惚れじゃなかったら嬉しい。すごく。
俺も同じように思ってる。"
私達は思ったよりラブラブなのかもしれない。
そういうことだったら嬉しい。
【番外編】あなたの弱点 Fin