10分間旅行
もし、自分の命が残り10分だとしたら君たちはどうするだろう。
この話は、たった10分間の話だ。
私はある日、黒いカゲに出会った。
背の長い、黒々としたカゲ。
優しいようで、怒っているような不思議なカゲに私は出会った。
黒いカゲは言う。
お前に残された時間は後10分しかない。
肉体はもうダメだが、魂だけならどこかへ連れて行ける。
お前が行きたかった場所へ連れて行ってあげよう。
この10分で「生きていてよかった」と思える旅に出させてあげよう。
あまりに唐突だった。
私はつい昨日までは五体満足だったはずだ。
それが今日になって残り10分とは、急な話である。
しかし、私にはそれがさも普通のことのように感じられた。
カゲは私を連れ出す。
私が言う。
行きたいところなら山ほどあるよ。
多分、10分じゃ間に合わないだろうね。
カゲは答える。
行きたいところと時間を費やすところは全くの別だよ。
行った時点で満足してしまえば、そこには1秒だって掛からないかも知れないからね。
行きたいところには一瞬で行くことができる。魂なんて何でもありさ。
そこに滞在する時間を1秒だとしようか。10分間が600秒、つまり600もの場所に行くことができる計算になる。
そんなに行きたいところなんてあるかい?
私は困惑してしまう。
確かに600なんて膨大な数の地名を一瞬で思い出すことなんて出来ない。
そう考えれば、行きたい場所というのは今行くべき場所とは違うのではないか?
この10分で行くべき場所とはどこだろう。
母は元気にしているだろうか。父は頑張っているだろうか。兄は、弟は無事にやっているだろうか。親友は、彼は、彼女は、あの人は・・・。
様々な考えが脳を横切っては消えていく。
そして私は願いを言う。
私の友達に会いに行きたいんだ。
カゲは、うん、とだけ答える。
次の瞬間、彼らの体は闇に飲まれていった。
気が付くと私たちは雲の中にいた。
足元はゴツゴツとしている。どうやら荒野の真ん中にいるようだ。
ここはどこだい?私は友人に会いたいのだけど。
私は聞く。
カゲは雲の中を進んで行く。
見失わないように足早についていくと雲の霧が晴れてきた。
君の友人はそこにいるよ。
何年も前からこの地に来ている。
カゲが指差す方を見ると、懐かしい顔が見えた。
久しぶりだな。元気だったか?
友人が大声で叫びながら笑顔で手を振っている。
私も嬉しくなり、手を振り返しながら走り寄って行く。
いったい何年ぶりだろう。ひどく懐かしい気がするよ。
しかし、変わってないな、お前も。
二人は他愛のない話を交わす。
最近はどうなのか、楽しいことはあったのか、嬉しいことはあったのか。
時間経過を言われ、私は我に返った。
どうやら3分ほど経過したらしい。
お、行くのか。じゃあ、また会えたら会おうぜ。
友人が手を振る。
私も走りながら精一杯手を振り返す。
もう大丈夫かい。なら、次行きたいところを教えてくれ。
カゲは私に問いかける。
私は友人と会えた嬉しさから笑顔で答える。
次は家族のところに行きたい。
カゲは先ほどと同じように返事をする。
次の瞬間、体が闇に飲まれる感覚がする。
体が闇に染まる中、ふと友人の声が聞こえた気がした。
深い暗転の後、私の体に伝わってきたものは懐かしい暖かみであった。
懐かしい声。懐かしい笑顔。懐かしい景色。懐かしい香り。
母が、父が、兄がそこにいた。
しかし、弟の姿は見えない。
それでも私は嬉しくなって走り出す。
お母さん、お父さん、兄さん。ただいま。
久しぶりに触れる温もり。
自分の起源に帰ってきた感覚。
おかえり。大きくなったな。
父がにこやかな表情で手を広げる。
元気にしてた?
母も同様に暖かい抱擁をしてくれる。
いつも寡黙だった兄はいつものように無言だったが、久々に見る兄の笑顔がそこにあった。
弟はどこにいるの?
私は聞いた。
さっきまでここにいたのに...おかしいわね
母が不思議そうに言う。
どうやらヤンチャな性格は変わっていないようである。
それはそれで微笑ましい。
それから私たちは話をする。
生活のこと、最近変わったことなど、笑い話が中心で笑顔は絶えることはなかった。
あと3分だ。
カゲは言う。
そろそろ終わりが近づいてきたようだ。
最後ぐらいは一人で迎えよう、そう思った。
そろそろ最後だ。どうする?
思っていたより時間はなかったようだ。10分とはこんなに短いものだったのかと思い出す。
最後はどこへ行こう。私の死に場所はどこがふさわしいだろうか。
ふと頭に懐かしい光景が浮かんだ。青い空の下、弟と二人で遊んだあの場所へ行こう。
海だ。海に連れて行って欲しい。
私は願う。
カゲは「わかった」と言った。
3度目となるとさすがに慣れてきた闇が足元から飲み込んでいく。
冷たい闇の感触が脳へ伝っていく。
頰に雫が落ちた気がした。
目を開くとそこは夕暮れの海だった。
青空じゃないんだね。
私は残念そうに言った。
カゲは答える。
でも、最後には相応しい光景じゃないか。
それに、こんなに綺麗な夕日は見たことがない。
それもそうだ、と私は頷く。
この夕焼けに飲まれて消えることができるなら、不満はない。
カゲは私に話しかける。
最後に俺にお前のストーリーを話してくれないか、言い残すことは少ない方がいいだろう?
私は話し始める。私の人生を。
言い残すことがないように。
満足がいくように。
事細かく、詳細に。
涙が溢れる。
自分の人生は楽しかったのか。
こんなにも。
思い返すたびに後悔が蘇る。
しかし、それももう遅い。
私は消えたくない。
一番恐れていた言葉が溢れてしまう。
でも、もう遅い。
あと30秒だ。
カゲが言う。
話すことはもう尽きた。
もう全部吐き出したよ。言い残すことはもうない。
強いて言うなら最後に弟と話がしたかったな。
私は涙を流す。
カゲの表情は見えないが、カゲも悲しんでくれているだろうか。
私は目を閉じる。
冷たい波がやってくるのがわかった。
これが「死」なのだろうか。
体が闇に飲まれていく。
ああ、消えるのか。
これで、もう....。
蘇る思い出。
これが走馬灯というものか。
ふと、声が聞こえる。
願いは叶っているよ、姉さん。
懐かしい声。弟がいる。
声は続ける。
僕はずっと姉さんに守られて生きてきたんだ。
でも、姉さんは選ばれてしまった。
人類を未来に残すための実験に。
姉さんは冷凍された。姉さんは希望を託されたんだ。
でも、希望を残した人類自身が自分の身を滅ぼし始めた。
姉さんが眠った20年後、戦争が起きてしまった。
みんな、死んでしまったんだ。
シェルターに残された姉さんは残った。
でも、冷凍を解除させる人はいなくなってしまった。
そのまましばらく経って、シェルターも老朽化で崩れ始めた。
生き埋めにされた姉さんに残された時間は10分だった。
もう、10分が経とうとしている。もう、さよならだ。
そうか、そうだった。
私は思い出した。
友人の最後の言葉が蘇る。
お前が選ばれてよかった。頑張れよ。
彼も応援してくれていたんだ。
感覚が冷たさに支配されていく。
黒く染まっていく意識の中で、弟の声が聞こえた。
僕はずっと姉さんのカゲに生きていたんだ。